コノヨノシルシ② 【Rosaceae】

 

 

コノヨノシルシ

第2話

 

 
 絳攸は久しぶりに、秀麗の家の前に立っていた。
 
 
 
先日の「絳攸謎の奇病事件(実態は恋患いと知恵熱)」から一週間。
 
 
今日は久しぶりの家庭教師の日である。
 
最初の三日間は、熱で寝込んでいた。
 
その後も、寝込んでいた間に片付けるはずであった、自分のレポートの遅れを取り戻すために、家庭教師を休まざるを得なかったのである。
 
しばしの逡巡の後、門扉のブザーを押す。
 
寝込んでいる間も、その後レポートに追われ、寝込んでいた間よりももっと死にそうになっていた時も、ふとした瞬間に、絳攸のなかに浮かんだ笑顔の少女。
 
ほどなくして現れた少女は、記憶のなかよりももっと艶やかに、絳攸に笑いかけてくれた。
 
「せんせい。おまちしていました。」
 
教え子を見る自分もまた、破顔していることには絳攸は気づかない。
 
それでも本心からの言葉を伝える。
 
「久しぶりだな。会いたかったぞ。」
 
その言葉に秀麗は、より一層笑顔を輝かせたのであった。
 
絳攸を自室に案内した後、秀麗はお茶の用意のため、いったん部屋を出て行った。
 
どうやら静蘭は、今日は不在にしているらしい。
 
何気なく室内を見渡した絳攸は、あるものに目を留め、思わず目を細める。それは、絳攸が最初に秀麗に渡した、参考書であった。
 
 
 
何度も何度も繰り返し使っているのだろう。
 
最初の厚さの何倍にも膨れ上がり、ふちもぼろぼろになっている。
 
夜遅くまで机に向かっている、教え子の姿が目に浮かぶようだ。
 
またも自然と破顔する。
 
 
 
 
 
「せんせい?なんだか楽しそうですね。お元気になられたようで何よりです。」
 
二人分の紅茶を持って秀麗が戻ってきた。添えられたクッキーは、おそらく彼女の手作りだ。
 
勉強机ではなく、ローテーブルの上に、紅茶を並べる。二人は、いつものように、テーブルの角をはさんで座る。
 
「相変わらず、秀麗はお茶を入れるのがうまいな。」
 
絳攸はひそかに、秀麗のお茶を楽しみにしているのだ。もちろんクッキーも。
 
「このお茶はせんせいがお好きかなと思って。次にいらしたときに、お入れしようと思っていたんですけど。」
 
話しながら、目の前の少女の表情に少し憂いが浮かんだのを見て、絳攸はなんだか自分まで悲しいような気がしてきた。
 
最近やっぱり、心臓がおかしい。
 
そんな絳攸には気づかない様子で、秀麗は続ける。
 
「でも、もしかしたら、お入れすることは、できないかなって思っていたんです。」
 
その言葉の意味が分からず、絳攸は瞬いた。
 
「できないって、どういうことだ?」
 
秀麗は、うつむいたまま、ぽつりぽつりと説明をはじめた。
 
「あの、この間、なんだかせんせい、お怒りのようだったから。」
 
「この間?」
 
「蛍と、彩雲大学に、行ったときです。」
 
絳攸は思い出した。
 
男性だらけの彩雲大学で、セーラー服姿の秀麗と蛍は、かなり目立っていた。
 
 
楸瑛だけでなく、他の男子学生も秀麗と蛍に興味を示していたことを思い出し、我知らず表情がこわばってしまう。
 
それを見た秀麗は、ますます悲しそうな顔になってしまった
 
絳攸は何も言わず、ただじっと秀麗を見つめることで、次の言葉を促した。
 
しかし、その言葉に絳攸は驚かされる。
 
「いつもはお優しいせんせいが、怖いお顔をなさっていて。急に、外に歩き始めるし……。
 
 
だから、何か、私が、せんせいの御気分を損ねるようなことを、してしまったのかなと思って……。
 
 
今も、また、ご不快なご様子ですし。
 
最近いらっしゃらないのも、もしかしたら、私に会いたくないからじゃないかなと思って、不安で。」
 
話しながら、不安がまた心を支配し始めたのか、次第に秀麗の声と肩が小刻みに震え始める。
 
目の前の少女を悲しませているのは、他ならぬ自分であったとは。
 
 
しかし、あの時、秀麗に対して怒っていたつもりはない。
 
そう、ただ、愛想笑いといえども、秀麗の笑顔が他の男に向けられることが、とても、腹立たしくて。
 
絳攸は胸の中のつかえが、すとんと取れた気がした。
 
(そうだ、俺は。秀麗を独占したかったんだ。もっと俺にだけ笑ってほしい。)
 
そうして、おそるおそる、目の前の少女を胸元に抱き寄せる。
 
突然の師の行動に、秀麗は、驚いたように、顔をあげる。
 
「こうゆう、せんせい?」
 
その眼に浮かんだ涙に、絳攸は胸が締め付けられそうだった。
 
「秀麗。きいてくれ。まずは不安に思わせたことを、謝りたい。
 
俺が考えなしの態度をとって、そのせいで悲しませて、悪かった。だけど、俺は、……俺は、秀麗に対して怒っていたわけじゃない。」
 
自分に対して怒ったのではないという言葉を聞いて、秀麗は少しだけ安堵したようだ。
 
絳攸の腕の中におさまった小柄な少女は、もう震えてはいなかった。
 
だが瞳には相変わらず、透明な雫が宿ったままだ。
 
絳攸は恐る恐る、少女のつややかな黒髪を撫でる。さらさらとまっすぐで、手に吸い付くような髪は、彼のよく知る人のそれと同じだ。
 
その感触に安心と高まる鼓動と、相反する二つが自分の中にいるのを感じる。
 
だが、腕の中の少女は、きっと、不安だけに押しつぶされそうになっているのだ。
 
ゆっくりと秀麗の肩に手をかけて、ちょうど腕の長さ分だけ体を離す。
 
絳攸は深く息を吸い込み、意を決して話し始めた。
 
 
 
 
 
「俺は、俺は、秀麗が、好きだ。」
 
言葉にして改めて、自分でも得心が行った。
 
(そうだ、俺は、秀麗が好きだ。)
 
なんにでも一生懸命で、まっすぐに人の目を見て話すこの少女が、いつの間にか自分の心を占めるようになっていたことに、本当は とっくに気づいていた。
 
(ただ、目をそむけていただけで。)
 
「あの時不機嫌だったなら、それは、たぶん、その、し、嫉妬だ。ほかの男に秀麗の笑顔を見せたくなくて。
 
 
だけど、あの時は、自分の気持ちが分かってなくて。だから、あんな行動をとってしまったけど。
 
突然こんなこと言って、戸惑わせてすまない。
 
でも、この思いが秀麗の迷惑になるなら、忘れてもらって構わない。家庭教師には影響を出さないと約束する。
 
それでも、もしも、もしも秀麗が嫌だったら、きちんと後任を紹介する。」
 
一気に話し切って、はぁ、と息を吐く。
 
告白なんてしたのは初めてだ。
 
それが、思いを自覚したのとほぼ同時なんて。展開が早すぎる。自分でもついていけない。
 
だが、秀麗はそれ以上に驚いているはず。
 
そう思い、もう一度目の前の少女の目を見る。
 
彼女の頬を、大粒の涙が一粒転がり落ちた。その涙が、絳攸を絶望の淵へと追いやる。
 
(泣くほどいやなのか。それにしても、恋心を自覚して、告白して、失恋まで5分って、さすがに早すぎるだろ。。。)
 
「秀麗。困らせて悪かったな。」
 
絳攸は自分も泣きたい気持ちを抑えて、秀麗に伝える。
 
(この俺が、アノ人のこと以外で、泣きたい気持ちになるなんて)などと、どうでもいいことが頭をよぎる。
 
おそらく、自分は、動揺している。それもかなり。だが、秀麗を困らせることだけは、避けたかった。
 
「今日は、帰るよ。他の家庭教師、見つかったら 連絡する。
 
あまり役に立てなくて悪かったな。でも、お前なら絶対大丈夫だから、このまましっかり勉強を続けていけ。」
 
そう言って自分の鞄を肩にかけ、ドアノブに手をかける。
 
(もう、この部屋に来ることも、ないな)
 
ふと、失恋からの立ち直り方、楸瑛なら知っているかな、と思った。
 
そんなとき、彼は背中に、突然の温もりを感じた。
 
 
 
「せんせい、帰らないで。」
 
絳攸の背中に寄り添った少女の、いかないで、というように回した細い手は、先程と同じように、震えている。
 
それでも少女は、勇気を振り絞るように、言葉を続ける。
 
「迷惑なんかじゃ、ありません。絳攸せんせい以外には、私の先生はいません。」
 
そういうと、少女は絳攸の腰にまわしていた手をほどく。
 
「せんせい、こっち、むいてください。」
 
震えた声で、告げられ、向き直る。
 
するとその胸に、今度は少女自ら飛び込んできた。
 
「私も、絳攸せんせいのことが、好きです。
 
だから、帰るなんて言わないでください。代わりの先生をなんて、言わないでください。
 
忘れていいなんて、悲しいこと、言わないで。ね、せんせい、お願い。」
 
 
 
絳攸は耳を疑った。
 
今、秀麗は、何と言ったか。
 
秀麗も、俺を、好いてくれている?
 
つまり
 
「せんせい、私たち、両想いなんですね。」
 
言おうと思ったことを、先に言われてしまった。
 
だから笑って答えたのだ。
 
「そうだな、これからもよろしくな。」
 
「はい、よろしくおねがいし、」
 
同じことを答えようとした秀麗の唇は、絳攸の指によって、止められた。
 
そうしてそのあと降ってきた恋人の唇に、秀麗は最初だけ驚いたように体をこわばらせたが、すぐに力を抜いて、彼を受け入れた。
 
長い長い口づけのあと、二人は手をつないで黙って座っていた。
 
二つの優秀な頭脳は、双方の一番不得手な問題を前に、疲れ切っていた。
 
けれども、二人とも、今までにないほど安らかで、幸せな気分に満ち溢れていた。
 
「絳攸せんせい?」
 
最初に沈黙を破ったのは、秀麗だった。
 
「どうした?秀麗。」
 
「先生の時は、今まで通り厳しい絳攸せんせいでいてくださいね?」
 
その言葉に、絳攸はおどろいた。顔が、笑ってしまうのを止められない。
 
全く、秀麗にはかなわない。
 
またも自分の言おうとしたことを先に口にしてしまった、小さな恋人を見て言った。
 
「今までよりももっと、厳しくしてやる。絶対にうちの大学に入れよ。」
 
その言葉に、秀麗は、花のような笑顔で答える。
 
やっぱりこの顔を、他の男に見せるなんて、もったいなさ過ぎる。
 
むくむくと自分の中に沸いた感情を隠すように、絳攸はもう一度恋人に口づけたのだった。