あれは、私がお金に目がくらんで後宮に入ってしばらくしてからのことでした。
後宮から府庫に向かう途中、中庭の銀桂の木の下にその人はいました。
「絳攸さま。」
そう、小さな声で呼んでみたけれど、帰ってくるのは小さな寝息ばかりで。
きっととてもお疲れになっているのだな、と思いました。
私と劉輝に、政を叩き込むために、その日の授業が終わった後、
きちんと翌日の準備に時間を割いてくれていることを、知っています。
そんなことは、本来の仕事ではないのに、
やると決めた以上は、けして手を抜く人ではないこともすぐにわかりました。
講師のときはとても厳しくて、劉輝やわたしの考えは、一蹴されることもしばしばです。
それは、この方がいつもどれだけ政のことを思い、
私たちの考えにきちんと耳を傾けて下さっているか、如実に表しているのです。
この方が立っているのは、幼心にも憧れていた、官吏という立場。
女人に国試受験を認めていないこの国では、
その隣に並ぶことはもちろん、後をついて行くこともできません。
けれど、今だけは。
寄り添うように隣に座っても、眠っているならきっと知られることもない。
そう思って、木を背もたれ代りに座っている絳攸さまの隣に、そっと腰をおろしました。
お城の庭園はどこも、当然のように手入れをされていて、
四季折々の花が、競い合うように咲いています。
それを見ても、少しだけ、悲しくなるのは、
以前は自宅の庭にも花が咲いていたことを思い出してしまうからでしょう。
花の一輪までも、池の魚の一匹までも、全てをもってしても、救えなかった沢山の命。
その時のことは、決して忘れてはいけないと、心に刻みました。
私が半分背負うから、その約束で劉輝は歩き始めてくれたから。
だから、絳攸さまの授業では、主役はあくまでも劉輝です。
そのことを、時々、悔しく思います。
もっと、もっと、あの方の後ろを追いかけていきたいのに。
走れないのは、着慣れない豪奢な衣装のせいではないのです。
もどかしい思いが心に湧いてきそうになったとき、ふと右肩に慣れない重みを感じました。
私のなかの拍動が早鐘のようになって、
肩から絳攸さまに聞こえてしまうのではないかと思いました。
それと同時に、私の心に、温かな気持ちが広がっていくのもわかりました。
でもその時は、その気持ちが何なのか考えることはしませんでした。
代わりに、少しくせのある銀色の髪に頬を寄せたことは、私だけの秘密です。
その後、目を覚ました絳攸さまは、しきりに謝っていらっしゃいました。
女人が苦手なのに、私の肩でお休みになったから、かえってお疲れになったのでしょう。
しばらく目も合わせていただけませんでした。
軽々しく隣に座ったことを、御不快に感じていらっしゃったのかもしれないとも思いました。
ですから、私が後宮を辞するときに、声をかけていただいたときは、
本当にうれしくて、涙が出そうでした。
滅多に褒めることがない代わり、心から評価をした時だけに見せてくれる微笑。
もっと見たいと思ってしまいました。
でも、もうお目にかかることもないだろうとも思っていました。
けれども今。
四日に一度、食事会の後に、絳攸さまに勉強を見ていただくのが、習慣になっています。
相変わらず厳しくて、
山のように出された宿題に、睡眠時間を削られることもしばしばですが、
そんなものは苦でも何でもありません。
新しい知識を得られることは、私に想像以上の喜びを与えてくれます。
そして、ごく稀に、今まで数回しかありませんが、
私の仕上げた宿題を見て、よくできているなというときに浮かぶ絳攸さまの微笑は私の胸に、
喜びと悲しみを同時にもたらすのです。
今なら、私にもわかります。
あの銀桂の下で感じたぬくもりやもどかしさを私にもたらすのは、
ただ一人、絳攸さまだけということも。
その気持ちが恋と呼ばれるものであることも。
本当は、ずっと前にわかっていたのかもしれません。
ただ、そうと認めるのが怖かっただけ、きっとそうです。
絳攸さまは、私のこの気持ちに気付いてはいらっしゃらないでしょう。
けれど、もうそろそろ、秘することは限界です。
時々見せて下さる優しさには、弟子に対する師としての慈しみが滲んでいます。
それが、かえって、私と絳攸さまの気持ちの違いを表わすようで、辛いのです。
このままでは私は狂ってしまう。
だから、少しだけわがままを言います。
お伝えすれば、困らせてしまうでしょうが、きちんとお断りになるでしょう。
そうしてもらえれば、私も、ただの弟子に戻ることができます。
だから、絳攸さま。
今だけ、弟子のわがままに付き合って下さい。
キリがいいから今日はここまでと講義を切り上げて、
出て行こうとする後ろから追いかけ、引き留める。
後ろから衣の端をつかみ、顔を見ないようしたままなのは、単に私の勇気足りないから。
それでも、精一杯振り絞って伝えます。
師として以上に、男性としてお慕いしていますと。
そして、きっぱりと振ってほしいことを。
絳攸さまはやはり、困ったようなお顔をされました。
涙を見せれば余計に困らせるから、泣くのはお帰りになるまで我慢します。
そうして漸く帰ってきた言葉は。
「困る。」
予想通りの言葉、そのはずでした。
けれど。
「振ってくれと頼まれても、困る。」
振ってもらうこともできないのかと、滲んでくる涙を必死にこらえて伝えます。
「振っていただければ、これ以上困らせることはいたしませんから。」
我ままとわかった上でのお願いだから、叶えてほしいと更に乞う、そのことくらい許して下さい。
「困ることなどあるものか。
せっかく思う女人から愛を告げられたのに。
だから頼まれても振ることはできん。」
虚を突かれただ立ちすくむ私に向きなおり、絳攸さまは、さらに続けます。
「だから、俺も、秀麗を愛している。だから、振ってほしいなんて言わないでほしい。」
予想もしなかった返答に、体の力が抜け、床に座り込みそうになる私を
絳攸さまが抱きとめてくれました。
「だって、絳攸さま、女人はお嫌いと。」
あぁちがう。
聞きたいのは、そんなことじゃないのに。
「だけど、秀麗は、特別だ。
秀麗だけを愛している。
こんな恥ずかしいこと、何度も言わせないでくれ。」
きちんと私の聞きたかったことを答えてくれた絳攸さまの顔は真っ赤で。
抱き寄せられれば、互いの心臓が早鐘のようになっているのがわかります。
「では、私はこのまま、絳攸さまをお慕いしたままで、いいのですか?」
そう聞いた私は、背中にまわされた腕の力が少し強くなるのを感じました。
「あぁ、むしろ、ずっとそのままでいてほしい。」
これは、わたしたちのはじまりの物語