make a secret

 

 
 
make a secret
 
 
 
うるんだ目でこちらを見上げ、秀麗が言った。
 
「藍将軍、…お慕いしております。」
 
何も言わずにそっと抱き寄せる。
 
その時、ちょうど府庫に入ってきたその人と目が合った。
 
 
 
失敗した。楸瑛は心の底からそう思った。
 
しかし、覆水盆に返らず。
 
大事なところできまらない男の汚名は返上したかったが、
 
やってしまったものは仕方ない。
 
 
 
青ざめた顔をして疾風のように去って行った友の姿を見ながら、嘆息した。
 
 
 
「藍将軍、どうされたのですか?」
 
不思議そうに自分を見る声に我に返る。
 
楸瑛の胸に顔をうずめていた秀麗からは、絳攸の姿は見えなかなかったらしい。
 
そのことは、楸瑛を少しだけ安堵させた。
 
「いや、何でもないよ。それより続けようか。」
 
「…私からお願いしておいて、こんなことを言うのもどうかと思うんですけど、
 
やっぱりやらないとダメですか?」
 
「私が相手だと不満かな?」
 
無駄に流し目で聞いてくる楸瑛に、ちょっと後ずさりしながら、秀麗は答える。
 
「イイエ。胡蝶姐さんからも、藍将軍にお願いするのがいいだろうと言われていますし。」
 
「そうだろう。私はいつでも歓迎だよ。」
 
しかし秀麗は盛大な溜息をつく。
 
「秀麗殿、気が進まないようだね。」
 
「そりゃあ進まないですよ。自分の苦手分野ということはわかってますから。
 
長官もひどいですよ。色仕掛けの勉強をしてこいなんて。」
 
「しかし、そのおかげで私は役得というわけだ。」
 
「そう言っていただけると、私も気が楽ですが…。」
 
「ところで、どうして私だったのかな?」
 
「藍将軍しか頼めないですよ、こんなこと。
 
静蘭相手はなんだか恥ずかしいし、燕青相手だとなんだか笑っちゃって練習にならないし。
 
劉輝に頼むのは違う気がするし。」
 
そこで名前の出てこない友人のことが気になった。
 
「絳攸は?」
 
考えてもみなかったというように、秀麗が目を丸くする。
 
「絳攸さまですか?」
 
しばしの沈黙の後、意外な答えが返ってきた。
 
「絳攸さま相手だと、私が練習でいられなくなってしまいます。
 
それに絳攸さまはそういったことはお嫌いだと聞いたことがありますし。」
 
「ふ~ん。練習じゃいられない、ね。意外だね、秀麗殿がそんなにあっさり認めるとは。」
 
「こういったことで藍将軍に隠し事ができるほど経験積んでませんから。」
 
秀麗は褒めているのかそうでないのか、微妙なことを言った。
 
ここは褒められているととっておこう。
 
「お褒めにあずかり光栄だね。
 
褒めていただいたお礼にひとつ提案だけど。
 
練習でいられなくなるんだったら、それはそれでいいってことはないの?
 
こういうことは気の乗らない相手と練習したからと言って、どうにかなる類の事ではないよ。」
 
「それは駄目です。」
 
迷いのない眼で秀麗は続ける。
 
「そんなことで絳攸さまに嫌われてしまうのは嫌ですから。」
 
それを聞いた楸瑛はしばしの逡巡ののち、分かったと告げた。
 
そして明日の同じ時刻に、再び同じ場所でと告げて去って行った。
 
 
 
 
そのころ、執務室では。
 
(コワイ、怖すぎるのだ……)
 
劉輝は震えていた。
 
先ほど執務室へ戻ってきた絳攸は、一言も発しない。
 
無言のまますごい勢いで書類を持ってきては署名させ、新しいものを持ってくるという作業を繰り返している。
 
しかし、その眼はいつものものと全く違う。
 
このままでは、自分の命に関わりかねない。劉輝はそう判断した。
 
悲しいことに幼いころから、生死の淵を比較的近くに感じて生きてきた。
 
まずい時はまずいと感じる程度には感覚は研ぎ澄まされている。
 
(このまま二人きりではまずいのだ。しかし楸瑛はどこに行ったのだ?)
 
劉輝の疑問は至極尤もなものだった。
 
劉輝の護衛が仕事であり、”花”を受け取った身でもある楸瑛がこの場に控えていないのはおかしい。
 
そう思い、思ったままを口にする。
 
「絳攸、楸瑛は…」
 
しかし、尤もだからと言って、口に出していいとは限らない。
 
飛んできた分厚い本。
 
無言のままで向けられた眼は仕事をするようにとだけ伝えてくる。
 
その眼に宿る殺気。
 
机の下の劉輝の足はがくがくと震えている。
 
上半身が震えていないのは、ふるえてもっと絳攸に怒られるのは避けようという、劉輝なりの防御本能だ。
 
その日の後宮で、ちくちくとただ刺繍にいそしむ劉輝の姿があった。
 
朱翠すらも声をかけることを憚るほど、その背中には哀愁が漂っていたという。
 
 
 
 
翌日。朝。
 
軒宿りで軒を降りた絳攸は、楸瑛を見て不機嫌になった顔を隠そうともしない。
 
しかしそんなことを気にしていたら、彼の友人を名乗ることなどできない。
 
「おはよう絳攸。」
 
「……」
 
「昨日、見てたんだろ。何で逃げたんだい?」
 
「に、逃げてなどおらん。ただ、気を使っただけだ。」
 
「ふうん?それならそれでいいけどさ。」
 
「いいことなどあるものか。お前まさか、秀麗以外にも女がいるんじゃないんだろうな?」
 
「これは異な事を聞くね。私は一人の女性に縛られることはないよ。」
 
その言葉に絳攸は激昂する。思わず楸瑛の首元につかみかかる。
 
「秀麗は、秀麗は、そんなことの相手にしていいような女じゃないぞ。」
 
「なぜ?彼女が選ぶことだよ?きみには関係のないことだろう。」
 
そうやって怒らせれば、彼の”鉄壁の理性”は案外簡単に崩壊することは長年の付き合いで分かっている。
 
これで、落ちた。
 
「関係ない?秀麗が幸せなら、誰を選ぼうともかまわないさ。
 
だけど、弄ぶのは、そんな幸せになれないと分かっていることは、認められるはずがない」
 
「そんなに怒らないでおくれ。
 
何を誤解しているのか知らないが、私は秀麗殿に手を出したりなどしていないよ。」
 
「あんなことをしておいてよく言う。」
 
「あれは、そんなことじゃないんだ。だけど、感謝してほしいくらいだよ。
 
君ももうわかっているんだろ?自分のことなんだから。」
 
「……。」
 
「認めるなら、ひとついいことを教えてあげようと思っていたんだけどね。違うというなら、教える義理はないね。」
 
「…まて。教えろ。」
 
「え?なんだって?」
 
「だから、認めるから教えろと言っている。」
 
「何を認めるのか、はっきり言ってもらえるかな。」
 
「…。だから。」
 
「だから?」
 
「秀麗を特別に、思っている、こと、だ。」
 
真っ赤になった友人の顔に、まあ彼ならこんなもので許してあげてもいいかなと思う。
 
「それでは…。」
 
そう言って楸瑛はある時間と場所を指定した。
 
 
 
秀麗は、急いでいた。
 
書類のことで清雅とやりあっているうちに、約束の時間に遅れてしまった。
 
漸く、府庫にたどり着いたが、そこで足が止まってしまう。
 
そこにいるはずのない人。
 
師として尊敬し、そしてそれ以上に、自分が恋情を寄せるただ一人の人。
 
息を整え、向かいに座る。それでも声が、かすれる。
 
「絳攸さま、なぜ、ここに?」
 
「楸瑛に、ここに来るように、言われた。」
 
秀麗は、昨日の楸瑛との会話を思い出した。
 
詳細な意図は計りかねたが、おそらく楸瑛なりに、気を使ってくれたに違いない。
 
とにかく、絳攸が来たのであれば、今日の練習はなしだ。
 
二人の間に気まずい沈黙が走る。
 
いたたまれなくなった秀麗は、お茶を入れると言って立ち上がる。
 
しかし、その手を、絳攸が引き留めた。
 
驚いて振り向いたその先には、いつになく思いつめたような、それでいて熱い瞳。
 
「秀麗。お前は、楸瑛が好きなのか?」
 
発せられた言葉の意味をとっさには理解できずに反芻する。
 
秀麗とて楸瑛のことは、兄のようにも思っている存在だが、そんなことは、絳攸も十分承知しているはずだ。
 
それでもあえて聞くというということは、特別に思っているのかという意味なのだろう。
 
男女のことに疎いといわれるこの人にそのようなことを言われた自分が、
 
よりにもよって問いを発した本人に思いを寄せているとは、何という皮肉。
 
その唇が紡ぎだす一言一言が、
 
自分を天にも昇らせれば、谷の底に突き落としもするとは思っていないのだろう。
 
改めて思い知らされ、答えはため息交じりになる。
 
「男女のこととしてお聞きになっていらっしゃるのでしたら、そのような特別なものでありません。」
 
私が思うのは、あなた一人。そう言えたならば、どんなにか楽だろう。
 
ところが、秀麗の答えを聞いた絳攸は、険しい顔をした。
 
「それではお前は、特別な相手でもないのに、あのようなことをするのか?」
 
言われている意味がわからないから、素直にそう伝える。
 
絳攸の表情は一層険しいものになっていく。
 
「だから、昨日…。楸瑛と抱き合っていただろう?俺が入ってきたのにも気づかずに…。」
 
言われてようやく飲み込めた。つまり、昨日の“練習”を目撃されたということか。
 
嘆息し、応える。
 
「あれは、“練習”です。」
 
秀麗の言葉に、今度は絳攸の方が飲み込めないといった表情を見せる。
 
「うちの、長官に言われたんです。
 
女だから内偵がうまくいくこともあるから、もう少し色気をつけるように練習して来いって。
 
だから、藍将軍にお願いしたんです。」
 
「……仕事のため?」
 
「そうですよ。どんなことをしてでも登って来いと仰ったのは、絳攸さまではありませんか。」
 
その言葉と共に自分に向けられた瞳。
 
官吏になりたいと、そして必ず追いかけて登ってくると、そう自分に誓ったものと同じ瞳だ。
 
その瞳に少しだけ浮かぶ、哀の色。
 
その意味が分からない絳攸は言葉を返せない。
 
ただ、じっと秀麗の言葉を聞いていた。そして続けられた言葉にたじろぐ。
 
「それとも、絳攸さまが、教えてくださいますか?」
 
「………!!!!!!な、にを、俺はそんな練習に付き合えるような経験はないぞ。役には立てん。」
 
本当のことだ。しかし秀麗は否という。
 
「絳攸さまが一番いいのです。いえ、絳攸さまでないとだめなんです。」
 
「どういうことだ?」
 
「藍将軍に言われたのです。気の乗らない相手と練習しても、意味がないって。
 
だから、絳攸さましか駄目なんです。」
 
告げられた言葉に混乱する。……俺が相手なら、気が乗るということか?
 
それは、つまり…。
 
「絳攸さま、お慕いしています。」
 
じっと見つめられ、自分の鼓動が秀麗にまで聞こえてしまうのではないかと思った。
 
だがよく見れば、秀麗も、頬を紅く染め、心なしか瞳もうるんでいる。
 
それを見てようやくわかった。
 
目の前の年下の女人が、どれほどの勇気をもって、先ほどの一言を伝えてくれたかを。
 
そして、自分の中に安堵と歓喜があふれていることを。
 
じっと見つめ返し、伝える。
 
「秀麗。俺も、愛している。」
 
そうしてそっと抱き締める。
 
自分よりも少しだけ体温が高い。そのことが、二人でいることをより強く感じさせる、そう思った。
 
 
 
 
「それで?無事に秀麗殿と思いを通じ合えたというのに、きみのその表情はなんだい?」
 
もっと楽しそうな表情のはずだろ、という友人の言葉にも、絳攸の表情は険しいままだ。
 
「お前、見ただろ?」
 
「絳攸、何の事だい?」
 
「秀麗の、あの表情は可愛すぎると思わないか?」
 
(……絳攸、思いが通じたとたんに、惚気かい)さすがの楸瑛も呆れて言葉も出ない。
 
無言のままの楸瑛を余所に、話の方向は思わぬところへ向かっていく。
 
「たとえ仕事とはいえ、他の男があの顔を見るかと思うと、俺はどうしたらいいかわからん。
 
お前、おかしなことを考えていないだろうな。
 
いや、考えているに決まっている。とりあえず一発殴らせろ。」
 
「こ、絳攸、待ってくれ。落ち着いて~。」
 
書簡を手に追いかけてくる絳攸が迷わない程度に加減しながら逃げる。
 
(絳攸もまだまだだねぇ、本当に好きな相手に見せる表情は、特別に決まってるだろう。)
 
だけど、その表情を引き出すことができたのが、自分でないのは少し悔しい。
 
だから、教えてあげないよ。他の男がその顔を見る心配はないことはね。
 
いずれ君が自分で気付くその時までは、秘密。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あとがき、という名の言い訳。
 
またしても秀麗の告白ネタ。
 
うちの絳攸さまは、自分から動かないな~。
 
動かないくせに嫉妬と独占欲はあるのだ。
 
そんな絳攸さまが好きなので仕方ない。
 
楸瑛と劉輝には災難な話。
 
そして秀麗の腹のくくり方が、漢らしい。
 
でも、恋をすると女の子は強くなるし、男子は結構ガラスのハートだと思います。
 
この話の裏主人公は、楸瑛さまです。
 
小鈴からみた楸瑛さまは、みんなのおにいちゃんという感じなので、
 
ちょっとお節介だけどついつい面倒を見てしまう楸瑛に頑張ってもらいました。
 
ところで、長官が言った色気って、そんなことじゃないと思うよ。
 
しかし李姫だといつまでも健全なままな気がする。
 
でも、恋する乙女の眼差しは、最高の武器だと思います。