1. 行っちゃヤダ
府庫を出ようとした秀麗は、ある人に目を留め立ち止まる。
入口付近の机。
貴妃としてここに出入りしていたころに、いつも座っていたその場所。
そこに眠る人の姿を見つけたから。
秀麗が師と仰ぎ、そして密かに思いを寄せる人。
彼の所属する部署には、閑期というものが存在しない。
あるのは繁忙期と超繁忙期らしいと、珀明に教えられた。
その多忙の合間を縫って、資料でも読みに来たのか、はたまた息抜きか。
とにかく宮城内を彷徨って、漸く辿り着いたことは想像に難くない。
ふと思いつき、自分用に持っていたひざかけを、彼の肩にかける。
そうしてそっと離れようとしたその時に。
腕をぎゅっとつかまれた。
そして告げられた言葉。
「いかないで。」
「……絳攸さま?」
問いかけても返事がない。
きっと寝ぼけているのだろう。
そう思いながらも、無理に離して眠りを妨げるのも忍びなく、そっと隣に腰掛ける。
寝顔までも整って美しい。
いっそ作り物の様だとも思うけれど。
でも秀麗は知っている。
怒ったり笑ったり、本当の彼はくるくると表情をかえることを。
官吏になってからというもの、こんなに近くで彼を見ることはなかった。
かつては勉強会で三日に一度は隣に座っていたというのに。
追いかけても、追いかけても彼はどんどんと先を行ってしまう。
「絳攸さまこそ、あまり先に行ってしまわないでくださいね。」
そっとつぶやいた言葉は自分だけの秘密の筈だったのに。
「だめだ。お前が追いかけてこい。」
帰ってきた言葉に驚かされる。
「絳攸さま。起きて…」
「あぁ、今な。さぁ秀麗行くぞ。」
そうやって微笑むのはずるい。どこまでも追いかけて行きたくなる。そんな笑顔だから。
「はい、絳攸さま、参りましょう。」そう言って私は、貴方の後をついていく。
2.おねがい
宮城の庭で見つけたその人は、ただ、空を見上げていた。
「絳攸さま、何を見ていらっしゃるのですか?」
何気なさを装って話しかける。
「秀麗か。なんとなく、雲を見ていた。」
「雲、ですか?」
「ああ、雲だ。いろいろな形に変わって面白いぞ。だが少々疲れてきた。」
いつからここにいたのだろう?
きっと目的地を探すうち、疲れ果ててここで休んでいたのだろう。
けれど、今話ができるのは、彼がここにいてくれたから。
そう思うと、少し嬉しくなる。
二人地面に座り込んで黙って空を見ていた。
ふいに秀麗は肩に重みを感じた。
絳攸がもたれかかるようにして目を閉じている。
「こ、絳攸さま!?」
驚いて声をかけるが、彼はすでに夢の中のようで。
「今だけ、たのむ。」
そう呟くとあとは規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
この時が永遠に続けばいいのに。
そう思いながらも「今だけですからね」そう呟いた。
私だけにしてくださいねとは言えない。だから「今だけ」。
3.手、握ってて?
「これは、なんというか」
「噂以上ですね。」
貴陽一の繁華街。
その中でも全商連に名を連ねる大店の前に絳攸と秀麗は立っていた。
もともとは秀麗の使い古した筆が原因だ。
それは女人国試の決まる以前に絳攸が送ったもの。
秀麗はそれを国試の勉強期間はもとより、茶州にも、御史台に配属になってからもずっと使い続けていたらしい。
先日何気なく硯箱を見た絳攸は、あまりにくたびれたその筆に、
官吏にとって筆は仕事道具なのだからいい加減買い換えろと、軽く口にした。
すると秀麗は、これは師である絳攸にもらったものだから、簡単に買い替えることなど出来ぬと言い張る。
それならと、二人で買いに行くことになった。それが今日なのだが。
どうせ長く使うのならば良いものをとの絳攸の考えのもと、
貴陽でも一番の評判の文具やに足を運んだものの、噂以上の混雑である。
絳攸は意を決して、左手を差し出した。
「秀麗、はぐれないように、俺の手を握っていろ。」
声が震えるのも、顔が赤らむのも、全部抑えることができたはず。
だが秀麗は一瞬目を見開き、ついでその目を恥ずかしそうに伏せた。
頼むから照れるな、俺が照れる。
そんなことはけして気取らせやしないけれど。
頬を赤く染めてそっと寄せてくる秀麗の手の温かさ、そして滑らかさ。
いつまでもつないでいたいと思ってしまう。
こういう特典があるのなら、目的地まで他人よりも少々時間のかかる自分の癖も悪くはない。
4.ずっと一緒だよ
息抜きがてらに府庫を歩いていたら、降ってきた。
棚から牡丹餅ならぬ、棚から秀麗。
どうやら、書架の上部の資料を取ろうとして、踏み台を踏み外したらしい。
反射的に受け身のようなものを取ったらしく、丸まっている。
どうやら抱きとめたことも気付いていないようだ。
気づいたらどうするのだろう?
あわてて謝るのか、困った顔をするのか。
どんな表情も、それが彼女のものというだけで特別で可愛いのだが。
そう思いながら黙って彼女を抱きとめたままでいた。
「……、あれ?痛く、ない?」
「床にはぶつからなかったからな。」
そう答えてやると、ようやく顔をあげる。
黒く丸い瞳がこちらを見る。
もともと丸いのに、今はさらに大きく見開かれていて、可愛い。
このまま連れて帰って自宅の奥に閉じ込めてしまいたい。
彼女を見ていれば一生飽きることなどないだろう。
だが、彼女が最も輝く場所を知っている。
残念なことに、籠の鳥は彼女の性分ではない。
「………、こ、こここ、絳攸さま!?」
「秀麗、危ないだろう。届かないところは燕青にでも取りに来させろ。」
驚いて口をパクパクさせているところもやっぱり可愛い。
冗官騒動の時以来、彼女の魅力に気付くものが増えたらしい。
気に食わないことだ。
そんなこと、俺はずっと前から知っていたのに。
ぽっと出の、しかもやる気のない官吏などに持って行かれてなるものか。
「あ、あの、こうゆうさま?」
「?なんだ?」
「もう、大丈夫ですから、降ろしてくださいませ。」
「嫌だ。このままずっと離さないで、連れて帰ってしまいたい。」
半分本気、半分冗談でそう言うと、彼女の顔はみるみる赤くなった。
本気に取ってくれるなら、それも悪くはないのだけれど、
こんなに困らせたいわけではないから。
「な~んてな。俺だってたまには冗談くらい言うんだ。怖いだけの師じゃないぞ。」
そう言って床にそっと降ろしてやる。
今はまだ、見守るだけ。
けれど同じ道を行くのだから、お前と俺はずっと一緒。