桃色

 

 

『えんまる』マスターの彩芽せつな様が、相互記念にと恵んでくださったものです。

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『桃色』

 

昼下がりの府庫。秀麗は物憂げな表情でパタンと本を閉じた。

「駄目だわ。頭に入ってこない」

 冗官になって先行き不安というのもあるけれど、今もっとも彼女の頭の中をしめているものは……『桃色草子』。いわゆる春本。

「タンタンのせいよ。どうしてくれるのよ」

 秀麗は棚に本を戻すと、一人うなりながら椅子に座り机に肘を突く。

 「スケベは男の一部」だの「男ってのは一日の半分は桃色なんだぜ」などと実に自信たっぷり、きっぱりと言い切った蘇芳の言葉とそれを証明するかのような冗官たちの姿。

 そして何より、あの静蘭だって桃色草子のことを知っていた!

 タンタンが言うところの『男の一般常識』は真実なのかもしれない。

「別にそれが悪いわけじゃないんだけど、そりゃ、男の人なんだから仕方がない、っていうか、そういうものなんだろうけど……」

 いや、でも、まさか。あの方も?

「おや、秀麗一人か? 邵可様はいらっしゃらないのか?」

「こ、絳攸様!?」

 考え込んでいた秀麗は椅子から飛びあがるようにして立ち上がった。
 ちょうど思い浮かべていた人物が目の前に現れて、頭の中を覗かれたわけではないのに慌ててしまう。

「ん? どうした?」

 秀麗の慌てぶりに絳攸は眉を寄せる。

「邵可様に何かあったのか?」

「え? あっ、いえ、違います。父様、いえ、父ならあちらの角で新しく入った本を検分、と言いつつ夢中で読みふけっています」

「新たに入庫した本があるのか。どのような物だろう」

 喜色を浮かべた絳攸は、そこでまた秀麗の様子がおかしなことに首をひねる。

「どうした秀麗。何か心配事か? それとも俺の顔に何かついているのか?」

 墨でも飛んでいるのかと思い、絳攸は手で自分の顔を触る。

「いえ、絳攸様。そういうことではなくて……」

「では何だ。俺に何か言いたげな顔だぞ」

「……おわかりになりますか?」

「言いにくい事のようだな」

 絳攸は椅子をひき、秀麗に向かいあう形で腰をおろした。
 つられて秀麗も腰掛ける。

「冗官に落とされたお前のことだ。悩むことならばたくさんあるだろう。恨み言でもかまわんぞ。聞いてやる」

「そんなっ、違います。絳攸様を恨むことなんて一つもありません!」

 秀麗は力一杯否定する。
 気遣わしげな青年の様子に、心配してもらえる嬉しさと、申し訳なさでいっぱいになる。

「実は少しお尋ねしてみたいことがありまして……ただ、ちょっと、くだらないことなので、言いづらくて」

「何だ。言ってみろ」

 うながされ秀麗は覚悟を決めた。
 サラッ、と何気なく訊けばいいのだ。世間話だ。無駄話だ。

「えーっとですね。……桃色草紙ってご存知ですか?」

 緊張している秀麗には気づかぬ様子で絳攸は腕を組み、何かを思い出すように目を閉じる。

「桃色草紙、か。草紙というからには婦女子向けの軽い読み物のことだろう」

「えっ?!」

 秀麗は絳攸の顔を凝視する。とぼけている訳ではないようだ。

「子供の頃、俺はそういうのを飛ばして国試に役立つといわれる物ばかりに手を出していた。少しでも早く国試に受かりたかったからな」

 確かに絳攸は影月が現れるまでは史上最年少の状元及第者だ。
 死にものぐるいで取り組んでも合格するかどうか、という狭き門。絳攸の努力はいかばかりか。

「官吏になってからも学ぶべきことは多かったから……。そうだな。考えてみれば俺は普通に知っていて当然の御伽話や昔話の多くを知らないのかもしれない」

 そこでフッと絳攸は目を開いた。

「桃色草紙について何か討論したいことがあったのだとしたらすまない。俺は知らない」

「いえ、そんな討論とかじゃ……」

「弟子が知っていて師である俺が知らないというのもな。もしも手元にあるのなら貸してもらえないだろうか?」

「わわわ、だ、だめですよ。そんな。ほら、くだらない物ですし、絳攸様の貴重な時間を」

「弟子から学ぶこともある」

「いえ、そんな殊勝なこと言ってる場合ではなくて、ですねっ」

 どうしよう! 桃色草紙って春本なのにっっ!!

 何が『男の一般常識』よ。タンタンの馬鹿~~!

 心の中では大絶叫である。

「あー、っとそう、そうです。私、持ってないんです。だからどんな本なのかご存知かなーって思っただけで、そんな真剣になるようなものでは……」

 秀麗は引きつった顔でダラダラと流れる汗をさりげなく拭う。

「そうなのか。では他に誰か持って……」

「絳攸様! 御伽話だったら私がお話できます! 二胡つきで!」

 飛び掛らんばかりの勢いで秀麗は絳攸の手をつかんだ。
 あっけにとられた絳攸は若干のけぞりながら「そうか」と言った。

「我が家にお越しくだされば、いえ、いつでもお教えしますから。ぜひぜひ聞いてくださいね」

「あ、ああ」

「良かった! 御伽話や子供向けの昔話だったら私、道寺の子供達に聞かせていて得意ですから、本を探して読むよりも私の語りで聞いてください。お願いします!」

「……わかった」

 了承の言葉を得て秀麗は安堵で全身の力が抜けた。
 これで絳攸が桃色草紙を探して読むようなことはないだろう。

「ところで秀麗」

「はい。っっああ!!」

 いつのまにか握り締めていた絳攸の手と、間近で見える戸惑ったような彼の瞳。

「すみませんっ!」

「いや、かまわないが」

 慌てて手をはなし真っ赤になって謝る秀麗。

「えらく必死だな。やはりその桃色草紙には何か……」

「ありません! 何もありません!」

 どう考えても何かあるに違いない反応だが、絳攸はそれ以上追及しないことにした。
 調べようと思えばいくらでも調べられることだ。それに何より、先ほどから彼女が背にしている窓越しに、せわしなく開閉する見慣れた扇がチラチラ見える。

 この後しばらくネチネチと嫌味を言われ続けるに違いない。そして上司は仕事放棄だ。
 絳攸は頭痛がしてきた。

「すまないが仕事を思い出した。先に失礼する」

「吏部までお供しましょうか」

「いや、いい」

 そのまま立ち去ろうとした絳攸だったが、ふと思い直して秀麗に声をかけた。

「秀麗。やはり一緒に来てくれるか? さっそくで悪いが歩きながら何か話を聞きたい」

 どうせ嫌味を言われるのなら、その原因が少しばかり増えたところで大差ない。
 それに上司が仕事をしないのはいつもの事ではないか。

 開き直った絳攸はニッコリと笑った。
 いつもは厳しい師の笑顔。珍しいだけに少女は目を見開き、そして花がほころぶようにその顔に笑みを浮かべた。

「はい。喜んで」 

 笑顔を返されただけなのに一瞬驚く。なぜだか目が惹きつけられた。
 理由がわからなかった絳攸は、思いついたことをそのまま口にした。

「今の秀麗の頬の色を桃色というのだろうな」

「えっ」

 呟かれた絳攸の言葉。
 事実をそのまま告げただけであろうに、なんだか妙に気恥ずかしい。
 照れ隠しのように秀麗の口調が早くなる。

「えーっと、そうだ『薔薇姫』はご存知ですか? さすがに歩きながらだと二胡は弾けませんね」

 笑いあい連れ立って府庫を出て行く姿はとても親しげで。
 窓の外でバキッと何かが折れる音はとても悔しそうに響いた。
 

 

 

小鈴による感想

かわいい!絳攸さまがかわいいです。

『えんまる』様には、こんな悩める可愛い絳攸さまがたくさんおいでです。

小鈴は何度も読んではなんどもにまにましております。