愛しい悪魔のお話
 
 
 
 
 
 
愛しい悪魔のおはなし5題 



1.
それは悪魔みたいなものだよ

2.
裏切って傷つけてばかりなんだ

3.
儚い幻想で惑わしたりもする

4.
でも背中にしあわせを隠し持ってるんだ

5.
だから何度でも溺れてしまうんだよ


素敵お題by確かに恋だった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 1.それは悪魔みたいなものだよ
 
 
宮城の回廊を歩いていた藍楸瑛は、意外な人の姿を見つけて、声をかけた。
「秀麗殿、どうしたの?」
未だ唯一の女性官吏として御史台で活躍する紅秀麗は、
いつもくるくると動き回り、一所にじっとしているような女人ではない。
特に、この宮城内でぼうっとしているなど、公私の区別をはっきりとつける彼女らしくもない。
だから気になって声を掛けた
 
「あ、藍将軍……」
こちらを見上げてくる彼女の目にもいつもの覇気がない。
「どうしたの。秀麗殿らしくないね。何かあった?」
心配になって、そう問いかける。
彼女は漆黒の瞳を少し揺らした後、意を決したように言う。
 
「藍将軍、折り入ってご相談したいことがあるのですが。」
先ほどまでとは打って変わり、掴み掛からんばかりの勢いの彼女に少々気圧されながら、
しかし、女性の頼みを断るなどという行為は、藍楸瑛の辞書にはない。
「秀麗殿が私を頼りにしてくれるなんて嬉しいな。何の相談かな?まさか、恋の相談かい?」
彼女に限ってそれはないと思いながら軽口をたたく。
しかし、秀麗は真剣な目をして答えた。
「はい、そうなんです。」
「………、え~と、本当に恋の相談なんだ。」
予定外だ、と楸瑛は思った。
秀麗の頭を占めているのは、いつも民のこと、仕事のこと。
今日もてっきりそのような相談だと思ったのだ。
 
とりあえずここではなんだからと、羽林軍将軍に与えられた執務室へと連れて行く。
手ずから茶をいれ、秀麗の前に出してやる。
「秀麗殿の入れたものにはかなわないだろうけど。」
そういうと秀麗は笑って答える。
「心をこめて入れていただいたもの以上に美味にはなりませんわ。」
そういって湯飲みを手に取ると、一口すすり、笑顔を見せる。
「美味しいです。」
見るものの心を暖かくする、野に咲く花のような笑顔。
楸瑛の知っている秀麗の顔だ。それに少し安堵した。
 
「それで、秀麗殿の心を射止めた羨ましい男はどんな方なのかな?」
幼い頃から美形家人静蘭と育ち、この国の王である劉輝をも袖にした秀麗が選んだ男とはどれほどのものか。
女性に関しては一家言ある楸瑛としても気になるところであった。
秀麗は何度か息を呑み、口を開こうとしては溜息を吐き出すことを繰り返している。
聞いている楸瑛の緊張感も自然と高まって行く。
 
そして、漸く秀麗が口にした言葉は。
「あの、藍将軍。恋ってどんなものですか?」
予想外の言葉に、楸瑛は言葉に詰まった。
「………秀麗殿、好きな男性ができた訳ではないのかい?」
「できるできない以前に、好きになるというのがどういうことなのかわからなくて。」
だからご相談しているのです、という秀麗の目はあくまでも真剣だ。それにしても。
 
「秀麗殿、どうして急にそのようなことを聞くのだい?」
「長官が、お前は恋も知らないから使えないっていうんです。
そんな使えないやつはクビだって脅すんですよ……。」
結局仕事のためらしい。
全く相手にされていない劉輝のことが、可愛そうに思えてきた。
 
「クビにならないためには、恋を知る、そういうことかい?」
「はい、こんなことでクビになんてなっていられませんから。」
聞いている楸瑛としては、年頃の女人として秀麗の努力の方向が間違っていると思ったが、しかし、秀麗のほうは至って真剣だ。
「お願いします。藍将軍しか頼める方がいないんです。だから、教えてください。」
 
 
困った、と楸瑛は思った。
女人と戯れることは好きだが、秀麗相手に下手なことはできない。
楸瑛とて自分の身が可愛いのだ。
静蘭や、劉輝や、某尚書やひいては紅家を敵に回して、悪戯に命を縮める趣味はない。
となると、他の相手を見つけて、秀麗に恋心を理解してもらうしかない。
 
「…そうだね、秀麗殿。その人の事を思うと、胸が高鳴る、そんな相手はいるかな?」
「胸が高鳴る?
ウチの長官の事を考えると、何にも悪いことしていないのに鼓動が早くなって嫌な汗をかきます。」
「…いや、そういうことではなくて。
もっとこう、…その人のそばに居たいとか、その人の笑顔が見たいとか、
会えないと寂しくて胸が苦しいとか。」
そう問いかけると、しばらく小首をかしげて考えた後に、秀麗は答える。
 
「う~ん。そうですね。…その人にほめられると嬉しくて、また次も頑張ろうと思う人ならいますけど。」
「その人のそばにいると、急に苦しくなったり、かと思うと幸せを感じたり、そんな思いをしたことは?」
「あ、あります!
早く追いつきたくて、でもそんなことよりも二人でいる今が続けばいいのにとおかしなことを思ったりします。
矛盾してておかしいなと思ったんですよ。でもどうして藍将軍はそのことをご存知なんですか?」
 
「秀麗どの、たぶん、それが、恋だよ。」
楸瑛がそう告げると、秀麗は急に頬を染めた。
その姿からは、常の秀麗が発することのない匂いたつような色香があふれている。
秀麗をそのように変えた男が自分でないということが矜持にさわる。
 
「で、秀麗殿にそのような顔をさせる男はどこの誰なのかな?」
隣に座る秀麗の肩を引き寄せ、耳元に囁き掛ける様に問いかける。
息が耳朶に触れたのか、秀麗のからだがぴくりと反応した。
そこに畳み掛けるように言葉を落とす。
「授業料がただなんて、そんな都合のいい話は、ないよね。」
先に回した左手に、右の手も加えて、檻の中に秀麗を捕らえる。
そうして眦に口づけようとしたその時。
 
「わ、わかりました。言います。言いますから、離してください、藍将軍!」
秀麗は腕の中で必死に暴れている。
その様子を見ながら楸瑛は、この娘はこんなに愛らしい仕草をしていただろうかと思う。
しかし、あまりの必死の抵抗に、これ以上いじめる事も忍びなくなり、手を離す。
それと同時に告げられた名前。
今まで気づかなかったのが意外なほど、身近なその名前。
絶対に、本人には内緒にしてくださいねといって、秀麗は室を出て行く。
 
その背中を見送った後、独りになった室の中楸瑛は呟く。
「無自覚であんなに愛らしく変化してこの私を惑わすなんて、まるで美しい悪魔だ。
キミは苦労するよ、絳攸。」
 
 
 
 
 


2.裏切って傷つけてばかりなんだ

「絳攸さま。」
自分に呼びかける弟子の声。
その声も、眼差しも、絹のように流れる髪も、全てが真っ直ぐで、それはまるで彼女自身のよう。
黒曜石のように漆黒の瞳も、ぬばたまの髪も、すべては何にも染まらぬ彼女らしい色。
 
上がってこいと、掛けた言葉に嘘はなかったはず。
 
けれど、最近、そう言った自分を憎らしいと思うときがある。
彼女がこれから歩く道を想像することは、自分にとって難くなかったはず。
されどどれほどの重みを彼女が背負うのか、その重みを真剣に考えていたかと問われれば、答えは否だ。
それなのに、自分は言った。
「上がってきたいか?」と。
彼女が是と答えるのを知った上で。
 
そうして自分が歩かせた道。
茨の道を裸足で、
凍てつく山に上着もなく、
灼熱の砂漠に水も持たせずにたった一人向かわせたのは自分。
 
否、彼女のことだから、こう言うに違いない。
「これが、私の選んだ道ですから、辛くなどありません。」
涙で赤く腫れた目で、それでもこっちを真っ直ぐに見て。
そうして笑顔で言うだろう。
「追いつきますから、上で待っていてください」と。
 
そんな彼女を突き落とすのはいつも自分。
国のため、民のためと理由をつけて、彼女一人に重荷を負わせ、役目が終われば引き摺り下ろす。
 
上がって来いといったのは、嘘ではなかった。
弟子への言葉として、嘘ではなかった。
けれど今、上がってくるなと思う自分がいる。
もう、辛い思いはするな、どうして身を削るようにそこまで夢中になる?
そんなものではなく、俺を見ろ。
どうしていつも一人で泣く?
泣くなら俺の元で泣け。
いつの間にか生まれでて、気づかぬうちに育っていた感情。
けれど自分にそれを告げる資格はない。
いったん水をやり芽吹かせた夢を、彼女からむしりとる事はできない。
 
だから俺は笑顔で先を行く。
何度でも、必要とあれば、突き落とし、そして待っている。
弟子のお前が俺のところまで這い上がってくるその日を。
 
 


3.儚い幻想で惑わしたりもする

「静蘭、そばにいて。お願い、ずっと、そばにいて。」
何度と無く耳にした言葉。その言葉に他意はなく、ただこの嵐が過ぎ去るまでのことと判らぬ自分ではない。今更言霊の呪縛に囚われるほど柔でも純でもない。
 
けれど、腕の中に愛しいお嬢様がいて、他の何にも目をくれず、
ただ自分だけにすがり付いてくるこの瞬間に、
仮初の夢を見たいと願うことが、罪になるだろうか?
 
全て捨て、それでもまだ奪われ、漸く旦那様に拾われたあの時、自分は間違いなくぼろぼろだった。
居場所を与えてくださったのは旦那様。
名前を下さったのは薔君奥様。
そして、取り戻すどころか、その存在すらも忘れ去っていた笑顔を再び与えて下さったのはお嬢様。
そうして私はお嬢様を守って、生きてきた。そう思っていた。
 
けれど気づいてしまった。
本当に守っていたのはどちらだったか。
本当に守られていたのはどちらだったか。
庇護するという名目の下に、お嬢様と自分を箱庭の中に閉じ込めて、
そうしてその中の平和で満足していた。
それでも確かに自分は幸せだった。
 
けれどお嬢様は気づいてしまわれた。
箱庭を飛び出して羽ばたく術を。
 
お嬢様がこの庭を飛び立てば、彼女に目を留めるのは自分だけでなくなることなど目に見えていた。
一緒に過ごした10年で嫌というほど知らされたから。
その直向さに、その大きな愛に、誰よりも惹きつけられていたのは自分だから。
 
目的の為ならわが身のことなど二の次で、見ているこちらははらはらさせられる。
そんなことはお構いなしに、前だけを向いて駆けていく。
そうして終わった後にだけ、隠れてこっそり泣いている。
そこに私は立ち入れない。
 
いつかお嬢様も見つけるだろう。
何もかもさらけ出し、涙を流せる場所を。
本当は気づいている。お嬢様の心がその師に向かっていることを。
それが自分でない事が、悔しくないといえば嘘になる。
 
けれど、私も夢見てしまった。
弟が治めるこの国が、お嬢様の夢見る形に変わって行く事を。
清苑の心を救った弟と、静蘭の心を救ったお嬢様がともにこの国を変えて行く事を。
 
けれど、少しだけ、夢とわかったその上で、それでも惑わされたいときもある。
だから、もう少しだけ。
この嵐よ、このままで。
 
 


4.でも背中にしあわせを隠し持ってるんだ

「理由を聞かせてください。」
いつもの真っ直ぐな瞳、よく通る声で彼女は言った。
 
紅家を思い、秀麗を思い、玖琅様が用意をされた縁談を、
そしてそれを断った事が彼女の耳に入ったらしい。
そもそも本人の耳に入るとも思っていなかったが、
こうなってみると、正面から問うて来るのがいかにも彼女らしい。
そうして真っ直ぐに、官吏の道を駆け上がっていくのだ。
 
「踏み台になってやれ」そういわれた。
そうなることを厭う気持ちは些かも無い。
彼女の為ならそんなものいくらでもなってやる。
けれど、断ったその理由。
 
「紅家直系の姫とはいえ、やはり私では相手としてご不満ですか?」
そんなことがあるはずがない。
弟子として大切に思う気持ちは、そのまま女人として特別に思うものへと変化していった。
そんなことは、腐れ縁の常春に指摘されるまでもなく、自覚している。
 
けれど、言えない。
相手がお前だから結婚できないのだと。
婚姻という鎖を手に入れた自分が、彼女の羽をもごうとする時が来ないとは言えない。
 
宮城内を歩く彼女に注がれる視線は、最初は好奇に満ちたものだけだった。
けれど、いつの間にか。
ひとつ、ふたつと混じり始めた視線。
見る目のあるものから、気付いている。
ある者はその直向さに、またある者はその細やかさに。
彼女の奥に秘められた、しなやかな美しさは、もはや自分だけが知るものではなくなってしまった。
 
「そうでは、ないんだ。ただ、俺がお前にふさわしくないだけで。」
漸く搾り出した言葉では、到底彼女を納得させることはできなかった。
「そのような言い訳は必要ありません。
ただ、女人としての私を厭うておいでなら、そのように仰れば良いのです。」
その目に僅かに光る涙。
やめろ、そんな目で見るな。期待したくなる。
もしやお前は、俺を夫にと望んでくれたのかと。
たとえ、それがどんな理由であろうとも、お前を独占できる権利を手に入れたいと思う俺には関係ない。
それなのに。
 
「私は、絳攸さまがお相手と聞いて、嬉しく思っておりましたのに。
私ではだめなら、せめてその理由をお聞きする権利くらいはあるはずです。」
嬉しく、思っていただと?
「軽々しく、嬉しかったなどというな。
知った相手で心安いと思ったのだろうが、誤解されても仕方ない言葉だぞ。」
声に出すことで、そういう意味ではないのだと、自分に言い聞かせる。
 
「誤解?何をどう誤解されるというのですか?」
向けられる視線に思わずたじろぐ。
彼女はこんな、獲物を狙うような瞳をしていただろうか?
なぜ年下の弟子に退路を立たれた格好になっているのだろう?
 
けれど彼女は容赦ない。
「絳攸さま、何を恐れておいでですか?」
そういった彼女の瞳には怒りも悲しみもなく、ただ静かに俺を見ている。
「私は、絳攸さまを、師として以上にお慕いしております。
たとえそれが叔父様に用意された縁談であろうとも、
相手が絳攸さまだからお受けしようと思いましたし、他の方に嫁ぐつもりはございません。
絳攸さまも、私のことを、憎からず思ってくださっているのでは思っておりましたのに、
あれは弟子に対する優しさと、そう仰るおつもりですか?」
なぜ逃げるの?と静かに問われる。
そう確かに俺は逃げていた。
彼女が好きだから縛りたくないなどと、理由をつけて、その実は。
 
「手に入れたら、失うことになるかもしれないだろう。
一度手に入れて、その後お前を失うことになったら、そう思うと俺は、怖い。
それなら、手の届かないままのほうがいい。」
言葉にならない思いが次々にこみ上げてくる。
誰にも渡したくない。
けれど思いを伝えて拒絶されるのも耐えられない。
まして形ばかりの夫となって、帰らぬ彼女を待ち続けるなど。
そうだ、いつも俺は待ち続けるばかりで。
いつの間にか待つ事自体を恐れるようになっていた。
湧き出た感情は出口を求める。
けれどうまく言葉にならない。
気付けば子どものようにぽろぽろと涙を流していた。
その涙を、そっと拭ってくれる愛しい人。
 
「絳攸さま、私はどこへも行きません。絳攸さまのお側に、いさせてください。」
ずっと以前から凍ったままだった心の奥底を、そっと溶かして行くような、優しい声。
その言葉に誘われるように、心の澱を言葉にしていく。
「俺は、自分が、怖い。
上ってこいと言いながら、
他の誰の目にも付かないように、どこにも行かないように、
秀麗を閉じ込めてしまいそうで怖い。
そうなって秀麗に嫌われるのが怖い。」
「絳攸さまは、私がおとなしく閉じ込められるとお思いですか?
そうなる前に、絳攸さまを正気に戻して見せますわ。
何が何でも欲しい物は掴み取るように、そう私に教えたのは、絳攸さまですよ?」
「……俺は、出自のわからない拾われ子だ。」
「存じております。
それが、絳攸さまのお人柄に何の関係ないことも。
厳しくて、優しくて、不器用で、真っ直ぐな。
私の存じ上げている李絳攸さまはそんな方です。
私はそんな絳攸さまの妻になりたいのです。私を信じては、いただけませんか?」
優しい言葉は揺り籠の様に俺を包んで、
最後に残った心の氷の芯までも溶かしてしまった。
それでも、どうしても確認したくて。

「俺は、本当は命など既に無いはずの人間なんだ。
それを黎深様に拾っていただいて、百合さんにも可愛がっていただいて、
この上好いた女と夫婦になるなんて、そんなことが俺に許されるのだろうか?」
幸せになるのが、怖いのだ、と。
「誰が許さないというのですか?」
「それは…。」
「誰が許さなくても、私が許します。それでは、だめですか?」
なぜ彼女には全てわかってしまうのだろう。
否、そんな彼女だから惹かれたのだから、今更言っても詮無きこと。
今俺がするべきことはひとつ。
「秀麗、俺はこんな情けない男だけど、
お前を大切に思う心だけは、誰にも負けない。だから、俺の、妻になってくれ。」
涙にまみれた顔で、今更格好もつけようが無い。
だけど、これが俺だから。そう思いせめて真っ直ぐに彼女の目を見る。
返された瞳も真っ直ぐで、そして暖かい。
そして彼女は俺の欲しい言葉をくれる。
「はい。私を、絳攸さまの妻にしてください。」
嬉しくて、また涙が溢れた。
拭ってくれた彼女の瞳からも、一粒のしずくが零れ落ちる。
互いの涙を拭いあうと、いつしか涙は笑みへと変わっていった。
 


5.だから何度でも溺れてしまうんだよ

「それで、無事に秀麗殿と婚約したと。」
「あぁ。」
「残念だね。
君が断ったから、私に順番が回ってくると楽しみにしていたのだけれどね。」
「この常春が。秀麗のことをそんな目で見ていたのか。もう近付くな!」
そういいながら手当たり次第に書類を投げられる。
 
その様子があまりに幸せそうで、ちょっと癪に障ったから言ってやる。
「そんな目で見ていたのは、君も同じだろ。
婚約した後は良いとしてもね。
それまでは君も私も同じ立場だったんだからね。」
「ばか、お前と一緒にするな。
お前と違って俺は秀麗だけを大事に大事に思っていたんだからな。」
 
恥ずかしげも無く婚約者への愛を語る姿は、
楸瑛の知る絳攸からは到底想像できないものだ。
 
黎深に拾われ、何不自由ない暮らしをしていても、
若くして国試主席及第し、出世頭の筆頭といわれても、
いつも友の心の奥底に硬く冷たい氷が宿っていることを知っていた。
 
養い親にも、友の自分にも溶かせなかった氷を溶かしたのは、あの少女。
いや、出会った頃の彼女は確かに少女だったが、今はもう、立派な女性だ。
近頃の彼女から匂いたつような色香を感じているのは自分だけではないはず。
 
「…絳攸、恋もなかなかいいものだろう?」
秀麗を変えたのが自分でないことが少し悔しいと思いながら友に問う。
友はしばしの逡巡の後答える。
「さあな。だがひとつ言える事は、お前のように何度もとは思わない。
秀麗が最初で最後がいい。」
まるでそこに愛しい人がいるかのような優しい瞳。
友は先に見つけたのだ。安らげる場所を。
自分が、未だかつて得たことの無いその場所は、
彼をも変えるほどの魔力を秘めているらしい。
そんな姿を見せ付けられては、自分も探さずにはいられない。
「…ごちそうさま。それでは私は約束があるので、もう行くよ。」
そういって楸瑛は絳攸をおいて去って行く。
 
「それで、この胡蝶に慰めろとお言いかい?」
「ああ、彩雲国一の美女でなければこの心の傷は癒せないよ。」
「冗談お言いでないよ。藍さまはいつも口ばかり。
思い人がいることをうまく隠せもしないで、よくもこの胡蝶のところに顔を出せたものだよ。
だけど秀麗ちゃんを選ぶとは、ご友人のほうは随分と見る目があるもんだ。
一度ご紹介願っておくんだったねぇ。」
「…胡蝶、一応私は客だよ?」
「わかっているさ藍さま。一緒に一夜の夢を見ようじゃないか。」
そうして次の花から花へ。飛びつかれたらまたここに来ればいい。
花のほうは、蝶を追いかけて行くことなどできぬのだから。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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