4.でも背中にしあわせを隠し持ってるんだ
「理由を聞かせてください。」
いつもの真っ直ぐな瞳、よく通る声で彼女は言った。
紅家を思い、秀麗を思い、玖琅様が用意をされた縁談を、
そしてそれを断った事が彼女の耳に入ったらしい。
そもそも本人の耳に入るとも思っていなかったが、
こうなってみると、正面から問うて来るのがいかにも彼女らしい。
そうして真っ直ぐに、官吏の道を駆け上がっていくのだ。
「踏み台になってやれ」そういわれた。
そうなることを厭う気持ちは些かも無い。
彼女の為ならそんなものいくらでもなってやる。
けれど、断ったその理由。
「紅家直系の姫とはいえ、やはり私では相手としてご不満ですか?」
そんなことがあるはずがない。
弟子として大切に思う気持ちは、そのまま女人として特別に思うものへと変化していった。
そんなことは、腐れ縁の常春に指摘されるまでもなく、自覚している。
けれど、言えない。
相手がお前だから結婚できないのだと。
婚姻という鎖を手に入れた自分が、彼女の羽をもごうとする時が来ないとは言えない。
宮城内を歩く彼女に注がれる視線は、最初は好奇に満ちたものだけだった。
けれど、いつの間にか。
ひとつ、ふたつと混じり始めた視線。
見る目のあるものから、気付いている。
ある者はその直向さに、またある者はその細やかさに。
彼女の奥に秘められた、しなやかな美しさは、もはや自分だけが知るものではなくなってしまった。
「そうでは、ないんだ。ただ、俺がお前にふさわしくないだけで。」
漸く搾り出した言葉では、到底彼女を納得させることはできなかった。
「そのような言い訳は必要ありません。
ただ、女人としての私を厭うておいでなら、そのように仰れば良いのです。」
その目に僅かに光る涙。
やめろ、そんな目で見るな。期待したくなる。
もしやお前は、俺を夫にと望んでくれたのかと。
たとえ、それがどんな理由であろうとも、お前を独占できる権利を手に入れたいと思う俺には関係ない。
それなのに。
「私は、絳攸さまがお相手と聞いて、嬉しく思っておりましたのに。
私ではだめなら、せめてその理由をお聞きする権利くらいはあるはずです。」
嬉しく、思っていただと?
「軽々しく、嬉しかったなどというな。
知った相手で心安いと思ったのだろうが、誤解されても仕方ない言葉だぞ。」
声に出すことで、そういう意味ではないのだと、自分に言い聞かせる。
「誤解?何をどう誤解されるというのですか?」
向けられる視線に思わずたじろぐ。
彼女はこんな、獲物を狙うような瞳をしていただろうか?
なぜ年下の弟子に退路を立たれた格好になっているのだろう?
けれど彼女は容赦ない。
「絳攸さま、何を恐れておいでですか?」
そういった彼女の瞳には怒りも悲しみもなく、ただ静かに俺を見ている。
「私は、絳攸さまを、師として以上にお慕いしております。
たとえそれが叔父様に用意された縁談であろうとも、
相手が絳攸さまだからお受けしようと思いましたし、他の方に嫁ぐつもりはございません。
絳攸さまも、私のことを、憎からず思ってくださっているのでは思っておりましたのに、
あれは弟子に対する優しさと、そう仰るおつもりですか?」
なぜ逃げるの?と静かに問われる。
そう確かに俺は逃げていた。
彼女が好きだから縛りたくないなどと、理由をつけて、その実は。
「手に入れたら、失うことになるかもしれないだろう。
一度手に入れて、その後お前を失うことになったら、そう思うと俺は、怖い。
それなら、手の届かないままのほうがいい。」
言葉にならない思いが次々にこみ上げてくる。
誰にも渡したくない。
けれど思いを伝えて拒絶されるのも耐えられない。
まして形ばかりの夫となって、帰らぬ彼女を待ち続けるなど。
そうだ、いつも俺は待ち続けるばかりで。
いつの間にか待つ事自体を恐れるようになっていた。
湧き出た感情は出口を求める。
けれどうまく言葉にならない。
気付けば子どものようにぽろぽろと涙を流していた。
その涙を、そっと拭ってくれる愛しい人。
「絳攸さま、私はどこへも行きません。絳攸さまのお側に、いさせてください。」
ずっと以前から凍ったままだった心の奥底を、そっと溶かして行くような、優しい声。
その言葉に誘われるように、心の澱を言葉にしていく。
「俺は、自分が、怖い。
上ってこいと言いながら、
他の誰の目にも付かないように、どこにも行かないように、
秀麗を閉じ込めてしまいそうで怖い。
そうなって秀麗に嫌われるのが怖い。」
「絳攸さまは、私がおとなしく閉じ込められるとお思いですか?
そうなる前に、絳攸さまを正気に戻して見せますわ。
何が何でも欲しい物は掴み取るように、そう私に教えたのは、絳攸さまですよ?」
「……俺は、出自のわからない拾われ子だ。」
「存じております。
それが、絳攸さまのお人柄に何の関係ないことも。
厳しくて、優しくて、不器用で、真っ直ぐな。
私の存じ上げている李絳攸さまはそんな方です。
私はそんな絳攸さまの妻になりたいのです。私を信じては、いただけませんか?」
優しい言葉は揺り籠の様に俺を包んで、
最後に残った心の氷の芯までも溶かしてしまった。
それでも、どうしても確認したくて。
「俺は、本当は命など既に無いはずの人間なんだ。
それを黎深様に拾っていただいて、百合さんにも可愛がっていただいて、
この上好いた女と夫婦になるなんて、そんなことが俺に許されるのだろうか?」
幸せになるのが、怖いのだ、と。
「誰が許さないというのですか?」
「それは…。」
「誰が許さなくても、私が許します。それでは、だめですか?」
なぜ彼女には全てわかってしまうのだろう。
否、そんな彼女だから惹かれたのだから、今更言っても詮無きこと。
今俺がするべきことはひとつ。
「秀麗、俺はこんな情けない男だけど、
お前を大切に思う心だけは、誰にも負けない。だから、俺の、妻になってくれ。」
涙にまみれた顔で、今更格好もつけようが無い。
だけど、これが俺だから。そう思いせめて真っ直ぐに彼女の目を見る。
返された瞳も真っ直ぐで、そして暖かい。
そして彼女は俺の欲しい言葉をくれる。
「はい。私を、絳攸さまの妻にしてください。」
嬉しくて、また涙が溢れた。
拭ってくれた彼女の瞳からも、一粒のしずくが零れ落ちる。
互いの涙を拭いあうと、いつしか涙は笑みへと変わっていった。