紅黎深という男。
名門紅家の直系。
天つ才を持つ男。
まるで神に愛されたような男。
しかし彼にも理解のできぬ、手に入らぬものがある。
室内に響くパチン・パチンという音。
目の前で椅子に腰掛けた黎深が扇子を閉じたり開いたりを繰り返すだけで、何も言い出さないことに、
絳攸は内心苛立っていた。
呼び出されたのは一刻ほど前。
家人に案内され、黎深の私室を訪れた絳攸にひとまず正座せよと告げたきり、黎深は黙ったままだ。
いい加減足も痺れてきた。読んでおきたい書物もある。
何より妻が午後のお茶の準備を整えている時間だ。
帰りたい、絳攸は心からそう思った。
しかし、それを素直に口に出すほど愚かではなかった。
拾われてからこっち、
黎深の傍若無人・極悪非道・冷酷無比・荒唐無稽ぶりには嫌というほどつき合わされている。
下手に反抗的な態度に出れば、
もともと無理難題である命令が、二倍三倍になりかねない事くらい理解している。
よって、絳攸はただ、耐えた。
漸く黎深が口を開いたのは、それから更に半刻ほど後。
「本当なのか?」
黎深の第一声はそれだった。
訳がわからず、返答に窮していると、苛立ったように更に問い詰められる。
「だから、本当なのかと聞いている。」
「……、何を仰っているのか…」
反駁しかけた絳攸の声を黎深の声が制する。
「だから、お前が秀麗とともに湯殿を使っているというのは本当なのかと聞いている!」
瞬間、絳攸の背中を滝のように汗が流れ落ちた。
何故、そのことを黎深が知っているのか?
自分が口外した事はもちろん無く、秀麗が話したとも考えにくい。
そうするときは気をつけて家人も遠ざけているし、
第一そのような口の軽い家人が紅家に入り込めるはずも無い。
なのに、何故?
「な、何故そのようにお考えになったのですか?」
声が上ずっている事を自覚しつつも精一杯虚勢を張って問い返す。
「影から報告が来ている。」
「…、“影”になんてことさせてるんですか、あなたは!」
「秀麗の身に何か起こらないか配慮したまでだ。」
「だからって風呂まで監視するんですか?」
「よからぬことを企む輩が居ないともいえないだろう?」
「そもそも紅邸に入り込めないのが普通でしょう!」
「だが、実際には、入り込んだ不貞の輩が居たわけだ。」
ちらりと横目で見遣る黎深の表情は、何度見ても背筋が凍るようだ。
「お言葉ですが…」
「何だ?」
黎深の冷たい視線になど負けてはいけない。自分は間違っていない。
「夫婦なのですから、別におかしい事ではないかと…」
「おかしいから、話をしているのに、判らんやつだな。」
だめだ、完全に話が通じない…。
絳攸は最後の手段に出る事にした。
「秀麗も、それが普通だと、言っていました。それに…」
流石にこれ以上はと、逡巡する絳攸に、黎深は焦れた様に言う。
「それになんだ!」
「黎深さまと百合さんはいつまでも仲がよろしくて、
理想の、
憧れの、
それはそれは素敵なご夫婦だと秀麗は常々言っておりますっ。」
「秀麗が、私のことを、素敵と?」
その瞬間黎深の貌は豹変した。
正統派の恐ろしい顔から、
悪鬼巣窟の頭目・紅吏部尚書を知るものだけが怯える、やに下がった顔に。
「おじさま素敵・だいすきと、そうか、秀麗が…」
いや、そこまでは言っていないと思いつつも、
この場を早く去りたい絳攸は、あえて否定の言葉を口にする事はしない。
パチン。
黎深は何か思いついたように扇子を閉じると、立ち上がった。そして家人を呼ぶ。
「今すぐ別荘の用意を整えさせろ。私と百合は今日からしばらく、滞在してくる。百合にもそう伝えろ。」
普段は百合と玖琅に丸投げの癖に、
こんなときだけ紅家当主の威光を振りかざし、家人に無理難題を押し付けるのが、紅黎深という人である。
絳攸には、黎深が考えている事が手に取るようにわかった。
紅家の別荘といえば、四季折々の庭の美しさと、露天風呂が自慢ではなかったか。
つまり、これから百合に起こる事は…。
ぁぁぁぁぁあ、百合さんお願いです。こんな事で俺を嫌いにならないでください。
絳攸は心の中で百合に詫びた。
黎深はそんな絳攸に目を向けると、まだ居たのか話は終わったと告げ、いそいそと去っていく。
家人に案内され離れの自室に戻った絳攸が異常ににぐったりしている事で、秀麗はひどく心配したが、
絳攸は力なく、大丈夫だと応えることしかできなかった。
一方その日の紅家別荘。
黎深は上機嫌で風呂に入っていた。
家人にはきちんと伝えてある。
後は、百合が来るのを待つだけだ。
そう思ったとき、誰かが近付いてくる気配がした。
漸く百合が来たのかと思い声を掛ける。
「遅いぞ。はやくしろ。」
これでまた、義父母夫婦は素敵だといわれるに違いないと思うと、自然と声も弾む。
ところが姿を現した百合は、着衣したままだ。
「何をしている。私を上せさせる気か。バカモノ。」
「…急に別荘に逗留すると言い出したときからおかしいとは思っていたけどさ。馬鹿は君だよ、黎深。」
「絳攸と秀麗が一緒に湯を使っているというのに、親として負けるわけにはいかん。」
「…何その理由。毎回君には笑わせてもらって楽しいよ。」
「百合、来るまで待っているからな。」
じっと百合を見てそういう黎深に根負けした百合は、準備する間に上せないでよねと溜息をつく。
当たり前だ、早くしろといっている黎深には百合の呟きは届かない。
「…馬鹿な子ほど可愛いとはよく言ったもんだよね。
あんなに一生懸命待たれたら、
年下と結婚して良かったとか思っちゃうじゃないか。」
紅黎深、天つ才を持つ男。
如かして、人間の感情・機微だけは不得手とする男。
しかし、周りには彼の感情を読み解く事のできる稀有な存在が集まっている。
紅黎深、やはりこの男、神に愛された男なのかもしれない。