pp ~PIANISSIMO~
府庫。
明け方そっと足を踏み入れた秀麗は、そっと深呼吸をする。
広い広い宮城の中でも、決して目立つ場所ではない。
けれど、そこは、秀麗にとって特別な場所であった。
単にその主が、父である邵可だからというだけではない。
自宅と同じく沢山の古い書物のにおいがして懐かしいけれど、それだけでもない。
そこは、秀麗にとって、間違いなく、“はじまりの場所”なのである。
お金に目が眩み仮の貴妃として後宮に入った十六歳の春。
そこで沢山の人と出会った。
秀麗の役目は、「王の教育係」。
けれど秀麗はなかなか王に合えずに居た。
後宮の主たる紫劉輝は、王たろうとはしていなかった。
それが秀麗には、酷く腹立たしく、それ以上に悲しかった。
古いけれど広さだけはある自邸の、花の咲かない庭院、魚の居なくなった池。
市井の人々を守るための王が、貴族が、官吏が、人々を苦しめた。
もうあんな思いは嫌だ。
贅沢でなくて良い。
自分の人生を自分で決められる程度の豊かさを国にもたらして欲しい。
それが、秀麗の唯一つの願いだった。
自分でできるものならどんな苦労も厭うつもりは無い。
しかし、秀麗は王ではなく、貴族といっても名ばかりで、その上女で官吏にもなれない。
塾で子どもたちに読み書き算盤を教えるのは、
そういった叶わない願いを、誰かに託したいと、そんな気持ちもあったのだと思う。
そして、機会は突然に訪れた。
桜吹雪の中で突然に現れた彼は、
自分よりも三つ年上だという年齢の割には随分と幼く、そしてどこか危うげだった。
一目見て、分かった。
彼が政をしないのは、彼の心がここに無いからだ。
どこか遠くを、遠くの誰かを見ているような、そんな彼に、それでも王は貴方しかいないと話した。
誰よりも孤独を厭うくせに、冷たい玉座に居る事を求めた。
そして少しずつ、動き始めた。
政をしようと、彼は言ってくれた。
政に当たるには、それなりの知識が求められる。
それを彼に叩き込む役が、吏部侍郎・李絳攸だった。
最年少で国試に主席及第し、若くして侍郎の役を任されている。
そして宮廷随一の才人といわれる人。
教官としての彼は、厳しかった。
それは、とても。
けれど藍将軍がこっそりと教えてくれたから知っている。
彼は、そうするに値すると認めた人物しか相手にしないのだと。
秀麗はそっと慈しむように卓子を撫でる。
荷物を半分背負うと約束したから、絳攸の授業には秀麗も参加していた。
その時間が嬉しくもあり、悲しくもあった。
今まで手の届かぬものと知っていたものが、酷く近く見えたから。
手を伸ばせば触れる事ができそうな距離。
けれど、自分だけが、薄い玻璃を隔てたこちら側にいて、彼らに並ぶ事など叶わぬ事。
けれど、近くで見る事で、夢が膨らんだ事もまた事実。
この卓子は、そんな懐かしい思い出のひと時を思い出させるのだ。
そのときはまだ、気付きもしなかったけれど、
運命の歯車は、ゆっくりとでも確実に動き始めていたのだ。
役目を終えて後宮を辞し、縁あって今度は外朝で働く事になった。
そうして次の年、秀麗は国試を受験し、探花及第を果たして晴れて官吏になった。
その間、そっと支えてくれた人。
彼が籍を置く吏部は、六部の中でも戸部と並んで多忙な部署だ。
その中で大切な時間を割いて、勉強を見てくれた。
山のように出される宿題に、鬼のようだと思った事もある。
けれど、いつも彼は優しかった。
国試に、そして及第後に必ず必要となる知識を、余すことなく叩き込んでくれた。
上位で及第しても、女人であるという一点だけで、
心無い言葉を浴びせかけられ、茨の道を行かねばならない事を知っていたからだろう。
だから、せめて、
そのときに武器となるものを身につけさせてやろうという彼の心が、嬉しかった。
そして、ある時に気付いてしまった。自分の心に芽生えたものに。
彼に誉められると、嬉しい。
嬉しいのに時々、苦しくなる。
滅多に見せない彼の微笑を、もっと見たいと、
そのために宿題に取り組んでいる自分に気付いてからだ。
こんな浮ついた心を知られれば、彼は呆れてしまうだろう。
そして、折角自分が時間を割いたのにと、軽蔑されてしまうかもしれない。
それが、怖かった。
不思議なもので、蓋をしようと決めたとたんに、思いはずっと強くなる。
質問をするときに、後ろから自分の手元を覗き込む彼の銀の髪が自分の耳に触れる。
宿題を見てもらうために手渡すその瞬間に、指先がほんの一瞬ぶつかる。
そのたびに秀麗の心臓は跳ねる。
そうして一瞬言葉をなくした秀麗を見て、彼はいつも優しく笑った。
根をつめすぎるなよとそっと頭に触れられると、
きゅっと心を締め付けられて、
もうどうして良いのか分からなくなって、まだ大丈夫ですと言ってしまう。
もっといわなければならない言葉があるような気がするけれど、それがなんだか分からなかった。
否、分からないふりをしていた。
あの頃にもし、この気持ちのかけらでも、彼に伝えていたならと、そう思った事は何度もある。
それは特に、何かをやり遂げたときに思う事が多かった。
進士のときに礼部で研修をやり遂げた後に、
茶州で疫病騒動を治めた後に、
そして冗官騒動の後に御史台長官に何とか拾われたとき。
いつも思い出すのは、提出した宿題が彼の考える合格点以上だったときのあの笑顔だ。
疲れ果てた心にいつも決まって浮かぶその人への思いの名前を、今はもう知っている。
知っているから、余計に、苦しい。
紅家直系長姫にして、紅本家をも動かす者としての自分が、知れ渡ってしまった。
自分の意思に関係なく、もはやこの身は、政治の一駒だ。
紅家を、或いは秀麗個人を疎ましく思うものにとっては、
結婚は官吏・紅秀麗を退場される格好の材料だ。
タンタンの例がそうである。
逆に、紅家に取り入りたいものにとっても、
直系長姫である秀麗は、喉から手が出るほど欲しい存在であろう。
しかし、いずれにせよ、もはやこの身は自分だけのものではない。
必ず追いかけてくるといった、石榮村の少女、朱鸞。
そして女人国試を導入するために尽力してくれた人々。
そのことを思えば、自分に余所見をしている時間は無い。
ただ、真っ直ぐに上だけを見て、駆け上がっていかねばならない。
けれど、ひと時、思い出の場所で彼の人を思う事、
そのくらいは自分にも許されるのではないかと思う。
だから時々、誰もいないであろう時間を狙って、そっと府庫を訪れる秀麗であった。
府庫の空気はあの頃と同じで、その事はひどく秀麗を安心させ、
徹夜明けの疲れも相まって、いつの間にか卓子に突っ伏してそのまま夢の中へと誘われる。
優しい言葉と懐かしい馨の温もりに包まれたような気がしたけれど、
秀麗の意識はまたも深い眠りへと落ちていった。
そうして一刻のち。
身に付いた習慣で定刻に目を覚ました秀麗は顔を上げ、そして、固まった。
目の前には静かに書物の項を繰る師の姿。
そして自分の肩に掛けられたのは、彼の上衣だ。
そのことに気付いてようやく、停止していた思考が回転を始めた。
「こ、こ、絳攸様」
「起きたのか。もう少し眠ってもまだ大丈夫だぞ」
「い、いいえ。絳攸さまの前で、眠るなど……」
そんな失礼な事はできないと、
それ以前に驚きで目が冴えてしまったから眠る事など無理だと
そんな言葉を言えずにいるうちに、目の前の師は眉を顰める。
「誰が来るか分からないようなところでなど、眠るな」
師の不機嫌の理由が分からぬままに、しかし確かに見苦しかったのだろうと謝罪する。
「……はい、申し訳ありませんでした」
「あ、いや、分かれば良いんだ。そんな、顔をするな。別に泣かせたいわけじゃない」
今度は慌てた様子の絳攸を不思議に思いながらも、借りたままになっていた上衣を返す。
「ありがとうございました。朝のうちに片付けたい書類があるので、御史台に戻ります」
「……そうか。あまり根をつめすぎるなよ」
昔と同じ、あの優しい笑顔がまたも秀麗の胸を締め付ける。
それを振り払うように秀麗はわざと明るく返事をする。
「私が追いつくの、待っていてくださいね」
それは自分に許された唯一の彼との絆。
彼の背中を追う事は、誰に咎められる事でもないから。
そうして秀麗は絳攸に一礼し、府庫を後にする。
秀麗は知らない。
眠る秀麗を見守る絳攸の手元の本は、全く項が進まなかった事を。
そして、返された上衣を彼がそっと抱きしめた事を。
そして溜息交じりにそっと呟いた言葉。
「俺を、見ろ、なんて、言わせてくれそうに無いな」
彼女が自由に翔くことは、師としてはこの上なく誇らしい。
けれど、本当は、それ以上のことを望んでいる自分がいる。
この手の中に捕まえたいと、願う自分を知っている。
そしてそれが彼女の枷になりかねない事も。
いやそんな事は言い訳だ。
ただ失う事を、恐れている。
この場所で、彼女の師として過ごした日々が、あまりに心地の良いものだったから。
だから、もう少し、このままでいたいと足踏みをする自分もいるのだ。
彼がその一歩を踏み出すのは、もう少し先の話。