温風至

注意:未来捏造話です。李姫夫婦設定。劉輝もお嫁さんがいます。

 

   温風至(あつかぜいたる

 



楸瑛は、はらはらとしていた。
目の前で幸せそうにほけほけと笑う王。
隣にはそれを冷ややかな目で見ながら、書類の山を抱える親友。

王が口にするその名前。
その度に王の顔に浮かぶ笑み。
王が大切そうに持つその茶杯。
それは全て一人の女性によるもの。

彼女は王の初恋の人であるけれども、今は隣にいる絳攸の妻だ。
そして、本人は自覚がないようだけれど、
絳攸の秀麗に対する溺愛ぶりと独占欲は生半可なものではない。

楸瑛としては、絳攸がそんな存在を見つけたことが嬉しくて、
いつだったか二人で酒を飲んだ時にそう伝えたことがあるのだけれど。

それでなんでお前が嬉しいんだ、馬鹿と一蹴されて終わった。

けれどそれは照れ隠しでも何でもなくて、その幸せを“当たり前”と思っている証拠。
やはり、それが嬉しくて、でも絳攸にはにやにやするなと再度怒鳴られたのだけれど。


ここ数カ月巡察に出ていた紅御史が貴陽に戻り、先ほど主上に直接奏上に上がった。
機密事項を扱う御史という仕事柄、先触れの侍童と入れ違いで、絳攸も楸瑛も一旦別室へと下がる。

控えの間ですれ違った秀麗は、二人に向かって正式な礼をしたけれど、
その眼はただ、劉輝のいる執務室へ向けられていた。

儀礼的なもの以上の笑顔も見せない、夫である絳攸とも言葉も交わさない。

御史は、王に直接奏上すれば尚書さえ解任できるほどに強い権限を有してはいるけれど、
身分はその権限に反して、けして高くはない。

この場でその身分の差を、しっかりと線引きするのは、如何にも秀麗らしいと楸瑛は思った。

けれど、隣に並ぶ絳攸は、少し寂しげにその背中を見送っていた。
「秀麗殿だって、君に会えて嬉しくない筈がないよ。今夜ゆっくり話をすればいい」
そう声をかけたけれども、絳攸は小さくあぁと答えただけだった。


隣で楸瑛がなんだか言っているのに、何となく返事をしながら絳攸は考えていた。

仕方ない。解っているつもりだ。

彼女は確かに自分の妻だけれど、それはこの城の大門を一歩出てからの話。
参内すれば彼女もまた、自分と同じ、官吏。

たとえそれが、三月ぶりの逢瀬であろうとも、
任務から帰還した御史であれば、
夫に会うよりも、上司である御史大夫への報告や、必要があれば王にも奏上することを優先して当然である。

当然である、けれども。

自分だって妻に会いたい、話をしたいのに。
夫たる自分を差し置いて、他の男が秀麗と話をしていると思うと、それだけで苛々として落ち着かない。
例え相手が王で、秀麗は仕事の報告に上がっているのだとしても、だ。

自分はこんなに我儘だっただろうか? と思う。
漠然と、自分は結婚などしないものだと思っていた。
国試及第後に殺到した見合い話で、美しく着飾った外見に反した女人の裏側を知り、嫌になったというのももちろんある。
しかし、それ以上に、出自のわからぬ自分が妻を娶り、子を為すことが想像できなかった。

けれど、どうしても自分のものにしたいという女人が現れた。
彼女も自分を選んでくれた。
紅家にも認められて、晴れて夫婦となった。
可愛い二人の子どもにも恵まれた。
そしていつの間にか、彼女に夢中になっている、溺れている自分がいる。
彼女が自分にくれたものが、あんまりにも幸せすぎるのだ。



そんなことを思っている間に、秀麗は王の執務室から退出し、控えの間にいる絳攸と楸瑛の一礼をすると、足早に去って行った。

少数精鋭の御史台は多忙。
巡察から戻ったら戻ったで、報告書やら新しい案件やら、することは山の様にあるのだろう。
 

 

執務室を退出した秀麗と入れ違いに、楸瑛と絳攸も再び劉輝の元へと戻る。
案の定、劉輝は上機嫌で、ほけほけとまるで、花でも咲いているような表情をしている。

もう、恋ではないのかもしれないけれど。
劉輝にとって秀麗が、大切なことを教えてくれた大切な人であることは変わらないのだ。
おそらくは、これから先もずっと。

大切なものを大切なままで心の中にしまっておける優しさを、この王は持っている。
そしてこの王は、秀麗がただ一人、自分の仕える王と選んだ人なのだ。

二人の間にあるのは、信頼と、国を思う情熱。

そんなことは解っていても、
二人の間にあるその絆さえも、時に疎ましく思っている自分がいる。

秀麗は、俺のものだ。

劉輝と秀麗の間にある気持ちと比べれば、
自身の抱くそれがどれほど子どもっぽいものかなど理解はしているけれど。



昨夜の出来事を思い出す。
絳攸が帰宅すると、娘と息子が何やらこそこそと書きものをしていた。
その短冊には見覚えがある。

昔、もう二十年以上も前になる。
黎深に拾われて貴陽に来た、その次の夏だった。
百合が、笹を持って現れた。
そして短冊と墨と筆を渡される。

「コウもここにお願い事を書いてね?」
「お願い事、ですか?」
「そうよ。お願い事を書いて此処につるすの。願いが、叶うようにね」
「でも、僕、今とっても幸せで、これ以上願い事なんてありません」

黎深さまがいて、百合さんがいて、
食べるものにも着るものにも困らず、
家人はみんな優しくて、
本当に本当に幸せだったから、そう伝えたのだけれど、
なんだか百合は悲しそうな顔をした。

書かなければ百合を困らせると思って、習いたての字でなんだか書いたのだけれど。

あの時の短冊には、なんと書いたのだったか。



そんなことを思いながら、子どもたちに話しかける。

「願い事を書いているのか?」
そう言いながら、覗きこんで絶句する。

娘と息子がまだ不揃いで、お世辞にも上手とは言えない筆蹟で書いた願い事は。

「お母さまのお仕事が上手くいって、早くお父さまがお母さまに会えますように」

思いもよらない願い事に、かける言葉も思いつかないでいる絳攸に、娘が不満そうに声をかける。

「お父さま、尋ねもしないでいきなり覗き込むなんて、お行儀が悪いとお母さまが言っていました」
口調は怒っているようだけれど、絳攸は知っている。
嬉しくて、恥ずかしい時に、娘の優楓(ゆうか)はこんな態度をとるのだ。
(そしてそれは絳攸に似ていると言っては、秀麗が良く笑う。)

まだ6歳の娘と5歳の息子。
自分たちこそ、母である秀麗と離れて寂しいだろうに。
そう思い娘に問いかける。

「優楓、どうして『母さまが早く帰ってくるように』じゃないんだ?」
すると、娘は、当然というように胸を張って答える。

「私も、泉俊(せんしゅん)も、お母様には会いたいですけど、
でも私達にはお父様がいてくださいますもの。
でも、お父様は、お母さまがいらっしゃらない時はなんだか寂しそう。
私も、泉俊も、お父様の笑顔が見たいのです。
それに、お母さまはこのくにのたみのために一生懸命働いていらっしゃるのです。
だから、お傍にいられなくても、
いい子でお父様の言うことをよく聞くようにとお母さまと約束しました。
だから、私たちの為に帰ってきてくださいなんて、言えません」

絳攸を見つめる優楓の漆黒の瞳。
齢六つにして、既に大切なことを理解している。

自分は確かに秀麗と家族を作ったのだ。
それなのに、子どもたちにこのように気を遣わせるなど……。

「では今日は父さまが寂しくないように、優楓も泉俊も一緒に寝てくれるか?」
そう絳攸がいうと、泉俊は満面の笑みで応え、
優楓は渋々といった表情を取りながらも、しっかりと絳攸の衣を握ってくる。

夜半。
自分の両側で聞こえる小さくて愛しい寝息を聞きながら、絳攸はぼんやりと考えていた。

今回は、黒州へ監察へ行くと言っていた。
その顔は、いつもの優しい妻の顔ではなくて、厳しい御史の顔だった。
白州と並んで、冬が長く、夏は短く、そして何よりも痩せた土地。
春の雪解け具合が、
そして作付の進行が、
その冬の黒州の命運を握っているといっても過言ではない。
王位争いで疲弊した貴陽の荒廃ぶりを体験している秀麗は、
食料が行き渡らないことの恐ろしさを身をもって知っている。

秀麗と影月が種をまいた茶州の学校は、ようやく軌道に乗り、
痩せた土地・短い夏でも収穫高が上がる様にはなってきた。
それでも、北部ではまだまだ飢えに対する恐怖と危機感が根強い。

そのため、郡や村単位での、官吏による搾取や食料隠しが後を絶たない。
税の分はきちんと国庫に収め、
その上で、緊急時には国や州が速やかに対応できるように、指導がなされてはいる。
けれど、貴陽から遠く離れた村々まで、その仕組みが行き渡るには時間がかかる。

今回秀麗は、おそらくそれを確認しに行ったのだと思う。
御史の任務は秘密厳守。
たとえ夫であっても絳攸が秀麗に詳細を尋ねることはないし、秀麗が話すこともない。

けれど、王の傍で見ていれば、自然とどの部署が今何を気にしているかは見えてくる。
その程度には、王も王らしくなったということだろう。

全ては、彼女が吹き込んだ風が変えたこと。
秀麗は何時も、王を真っ直ぐに見つめ、その掌を差し出している。

その姿が誇らしく、そして、少しだけ憎らしい。

かつて、自分の背中を見ながら、懸命に後を追って来ていた少女はもういない。

一御史の身分は低いけれど、
秀麗はそれを飛び越えて、宮廷の要となりつつある。

彼女を見出し、鍛えた誇りと、
自分を置いてこの腕の中から飛び立ってしまったような寂寥とが心の中でせめぎ合いをしている。

官吏としての彼女が、宮廷で花開けば開くほどに、

自分の妻としての秀麗がいなくなってしまうような気がしてしまうのだ。

「秀麗、早く帰って来い」

そう呟いたのは、夢の中でか、現(うつつ)の事か。
 

「……ゆう、絳攸」
楸瑛の声で、我に帰る。
見れば、山のように積み上げたはずの書類は全て片付いて、広くなった机を前にして、劉輝がどこか所在無げに座っている。

どうやら、考え事をしながらも、書類の決裁の指示は出していたらしい自分に、ため息が出る。
吏部時代に鍛えられたとはいえ、小器用な事が出来るものだと、自分で呆れる。

「主上が頑張って下さったから、今日の分の仕事はもう終わり。ちょうど定刻だし、退出の許可も頂いたから、帰ろう」
そう、楸瑛がいうと、劉輝がぱっと顔を輝かせ、立ち上がる。
「か、帰るなら、ちょっと待つのだ、絳攸」
そう言うと劉輝は室を出ていき、そして袋を抱えて戻ってくる。

「絳攸、これを持って帰るのだ」
差し出された袋の中身は、五色の糸飾り。
しかも絡まないように、一つ一つ細い糸でまとめるという気の使いようである。

「……なんだ、これは?」
「今日は秀麗も戻ったことだし、子どもたちと七夕の祭りをするのであろう?」
そう言われれば、昔短冊を飾った笹にも、五色の糸飾りがついていた様な気がする。
「だが、秀麗は……」
巡察から戻ったばかりでは、報告書に追われて戻りは深夜になるのが常である。

「今日は七夕だから、急いで帰らねばならぬと、余は少しの世間話もしてもらえなかった」
そう言うと劉輝は子どもの様にぷうと頬を膨らます。
「絳攸は家に帰ればいくらでも秀麗を一人占めできるのに、ずるいのだ」
その言葉とは裏腹に、その表情にはかつての様な悲しみは浮かんでいない。

「主上には世羅姫、いえ、紅徳妃さまがいらっしゃいますでしょう」
楸瑛も横から口をはさむが、劉輝はそれは違うと首を振る。
「世羅は世羅、秀麗は秀麗なのだ。どちらがどちらの代わりにもならぬ。楸瑛と絳攸どちらも大切な様にな」
にこにこと恥ずかしげも無く劉輝がいうから、こちらの方がなんだか恥ずかしくなって、絳攸は強引に話題を変えた。

「……これは、まさかまた夜なべしてつくったのか?」
「そうなのだ! 世羅が、絳攸は絶対に作り方など知らぬと申すのでな。二人で作ったのだ」
妃として後宮に入った後も、世羅姫は玖琅同様に絳攸と秀麗に心を配り、特に二人の子どもの事は、わが子の様に可愛がっている。
「そうか。……優楓も、泉俊も喜ぶ。」
「絳攸、そういう時は素直に主上にありがとうございますと言えばいいんだよ」
楸瑛が可笑しそうに言う。
「うるさい、今言おうと思っていたところだったんだ。せ、世羅姫にも礼を頼む」
そう言うと、劉輝と何やら話をしている楸瑛を置いて執務室を出る。



そこに、一人立っている人。



「秀麗」
「絳攸さま、一緒に帰りましょう」
「だがしかし、仕事は……」
「もちろん終わらせてまいりました。それにもう定時の鐘もなりましたから」

そう言ってほほ笑む笑顔は、もう、絳攸だけの秀麗の顔。
そんな秀麗を他の官吏に見せたくなくて、絳攸は軒宿へと急ぐ。
「絳攸さま、そちらよりもこちらの方が近道です!」

そんな会話をしながら仲睦まじく歩く二人の背中を、扉から顔をのぞかせた劉輝と楸瑛がそっと見守っていた。


 

 あとがきという名の、言い訳。

此処までお読みいただき、ありがとうございました。

まずはタイトルのお話を少し。
温風至(あつかぜいたる)とは七十二候の一つで、ちょうど七夕のあたりをさします。
日中は蒸し暑い風が吹いても、夜は涼しげな星空が見える、そんな季節。

今回も絳攸さまの心の中はじめじめとして空気が澱んでおります。
秀麗にメロンメロンの絳攸ちゃん。
でもなかなかそれを口に出せない、困った絳攸ちゃん。
いかがでしたでしょうか。

しかしうちの絳攸さまは本当にいいとこなしだな。
ごめんね絳攸さま。
迷ったり悩んだりしているそんなあなたが好きで、いつもそうしてしまうんだな。
他の素敵李姫サイト様では、カッコよく、素敵に書いていただいているから、うちで位はこんな書き方でも許して下さいませ。

そして今回当然のようにまたもちびっこを出しました。
ちびっこは好きといっていただけること多くて嬉しい限りです。
優楓に比べるといつも泉俊の影が薄くなってしまうので、また泉俊と絳攸の話でも書こうかな。

あと劉輝のお嫁さん捏造。

いろいろご意見はあると思います。
ま、うちのサイト傾向(李姫・静十)的に他に適任者がいないんです(笑)
劉輝は劉輝で幸せになってほしいという私の願いを込めて、今回はこのような設定にさせていただきました。