Episode-0
その日余は、少々理由があって後宮の庭院の茂みの中に隠れていた。
ん、余の名前か?
紫劉輝という。この彩雲国の王である。
つまりはこの後宮の主である。
ではなぜ堂々と回廊を行かぬのか?
それは簡単だ。抜け出すためである。
「おい、そっちはどうだった?」
「だめだ、全くちょっと目を離したすきに窓から逃げるなんて、主上も何を考えてるんだか」
「でもよ~、そんな悪知恵付けたのって、藍将軍のせいじゃないか?」
「そうだよな~、一緒に抜け出したりしてるみたいだな~」
「この間、花街で主上と藍将軍を見かけたやつがいるらしいぜ」
「あ~そいつ災難だな。俺だったら、その日は帰るね」
「だよな~、全く、後宮には妾妃の一人も入れないで花街に行くって、迷惑な話だよな」
「そうそう。藍将軍だって選び放題なんだから、花街まで独占しないで欲しいよなぁ」
「ちょっと、そこの方々!主上は見つかりましたの?」
「あ、筆頭女官どの、それが、まだ……」
「でしたらそんなところで油を売っていないで、さっさと捜索に戻ってくださいませ」
そういって羽林軍の兵士たちを追い払った後、珠翠の気配がこちらに近付いて来る。
「主上、何をなさっておいでですの?」
「あ~あの、珠翠。これは、その……」
「羽林軍の兵はしばらく戻ってまいりません。
お出かけになるなら、今のうちに。
但し朝までにはお戻りになってくださいませ」
そう言うと珠翠は片目をつぶり、上手くおやりになりませとそっと送り出してくれた。
そもそもなぜ余がこのようなことをしているのか。
それは余の側近に問題がある。
藍楸瑛と李絳攸の事を余はとてもとても信頼しているのだが、
その二人がこの頃、余になにか隠し事をしているようなのだ。
しかもどうやら、あにう、いやいや静蘭もその秘密を知っているようで、
一度静蘭にも聞いてみたのだが、
にっこりと「私が貴方に隠し事をすると思われているのですか?」と聞かれて、
思わずそうだなと答えてしまったから、もうそれ以上聞くに聞けないのだ。
だが、楸瑛の目を見ていればわかる。
あれは絶対に楽しいことを隠している目だ。
その秘密を探るべく、余は後宮を後にしたのだった。
抜け出してはみたものの、いったいどこから探せばいいのやら……、
そう悩んでいるところにある人の姿を見つけとっさに柱の陰に身を隠す。
(兄上、どこに行くのだろう……?)
気付かれぬように、そっと後を付いて行く。
宮城の端にこのような場所があるとは思いもしなかった。
兄上の姿が扉の向こうに消えたのを確認してから、
そっと扉の前に立ち、室の名前を確認する。
『冗官室』
冗官?
羽林軍の武官である兄上がこのような所に、何の用なのだろう?
そもそも、この城の中で、
主である余に隠し事をできると思ったら大間違いなのだ。
そっと扉に耳をあててみる。
誰だ?盗み聞きなどと言った者は?
これは情報収集と言うのだ!
王にとって、情報は大変重要なものであると、
その昔邵可から聞いたことがあるぞ。
だから、これは、余にとって必要なことなのだ。
耳を澄ますと中からは何やら賑やかな声が聞こえてくる。
「さっすが、凛姫だよな~。考えることが違う」
「そうだね。碧幽谷に姿絵をかかせて、新作の水着の宣伝用に配るとはね」
「それにしても姫さん、かわい~よな。ちょっと照れてるのが初々しくてさ」
「お嬢様が可愛いのは当然だ。
それより姿絵とは言えじろじろと汚らわしい目で見るな」
「けどさー、正直お嬢さんより適任いたんじゃねーの、
ほらあの、藍将軍さんが中のいい、胡蝶さんとかさ……」
「タンタンくん? お嬢様では何か、不都合なことでもあるのですか?」
「いや。
こーゆーのって普通、
もーちょっと胸の大きいオネエチャンがやるもんじゃねーの?
そのほうが男も女も夢が広がるだろー。
アンタだってお嬢さんが十三姫さんの囮になった時、まじまじ見てたじゃねーか」
「いやいや、あくまでも女性に向けての宣伝だからね。
胡蝶だと逆効果なんだよ。
男性向けならともかくね。
ね、絳攸、キミもそう思うだろう?」
「……知るか、この常春がぁーーーーーーーーーーー」
「ちょっと絳攸。重たい本を投げるのはやめておくれ。
他の人にあたったら、迷惑だろう?」
「安心しろ。外さずにお前の頭にあててやる!」
(なんだ? 何の話をしているのだ?
それにしても浪燕青といい榛蘇芳といい、兄上と仲良くしすぎなのだ。
余の兄上なのに……)
そんなことを考えながら中の会話を聞くのに夢中になっていたので、
後ろから近づいてくる気配に気づかなかったのは不覚だった。
「ちょっとアンタ、こんなところでナニしてるのよ?」
後ろから首根っこを掴まれる。
「しゅ、しゅーれい。逢いたかった……」
「何バカなこと言ってるの!
ちょっとは自分の立場ってものを考えなさいよね。
なんだってこんな城内の僻地まで来ちゃったのよ?」
「い、いやこれはその……」
「まぁいいわ。ちょっとそこ入りたいからどいてちょうだい」
そう言うと止める間もなく冗官室の扉を開けた。
それぞれの視線が交錯し、一瞬時がとまったようになる。
沈黙を破ったのは、秀麗の怒声だった。
「全員そこに直れぇぇぇぇぇ!」
その時の秀麗は、宋太傳より怖かったと、後々楸瑛と語り合ったものだ。
そうして、余と、静蘭と、楸瑛と、絳攸と、燕青と蘇芳が秀麗の前に正座をさせられた。
余は正座には慣れていなかったのですぐに苦しくなったのだが、
塾の子どもたちでももう少し根性があると秀麗がまた怒るので、何とか耐えた。
「それで、一体皆さんは何をなさってるんですか?」
「……、この前の絵姿が出来上がったから秀麗殿にも渡してくれと胡蝶から頼まれてね」
「でしたら、直接御史台にお越しいただけば用は済むかと思いますが?」
楸瑛を詰問する秀麗は、怖い。
泣く子も黙る御史台にすっかり染まっているに違いない。
葵長官に、あまり秀麗をキツくしないように頼んでおかなければならんなと思った。
「いや、ほら、私たちも少しだけ出ているから、自分たちがどういう風に描かれているかみんなで見ようとね」
「何の話なのだ? 余はさっぱりわけがわからないのだ」
「アンタは黙ってなさい!」
「そうはいってもさー、お嬢さん。
ここで話さなくたって、
この王さまは知りたいことはとことん追求するんじゃないの?
アンタだったらそーするでしょ?」
「まぁ、そうね……」
「そ、そうなのだ。余は仲間はずれは厭なのだ!」
「主上、我儘はいけませんよ」
「静蘭も、余を仲間はずれにするのか……。
余は、余は寂しいのだ……」
仲間はずれのままで、帰ってなどやるものかと、ちょっと我儘を言ってみる。
隣で正座している者たちも、互いに目で牽制し合った後に、静蘭が漸く口を開いた。
「……仕方ありませんね。お嬢様、お見せしても?」
「……見たらすぐに忘れのよ」
その秀麗の言葉を確認するや否や、
楸瑛の手元に隠されている冊子を手に取る。
そこには、水着を身につけてにこやかにほほ笑む秀麗の姿が描かれている。
「しゅ、しゅーれい! これは、何なのだ?」
元夫にも見せない肌をこのように!
と言おうと思ったが、楸瑛と静蘭に口を塞がれてしゃべれなくなった。
「見たら、忘れるって、約束だったわよね?」
本当は心にしっかり焼きつけて、
絶対に忘れることなどしないと思っていたが、
ここは一応頷いておく。
そうして秀麗は蘇芳と燕青と共に御史台へと戻っていき、
残った面々からは、何故こんなところに来たのか、
明日までにやっておけと言った書類の処理は終わっているのだろうなと散々絞られた。
そのあと自室へと戻る警護をしてくれた楸瑛が、そっと、例の冊子をくれた。
寝台に腰掛けてそれを眺める。
みんな楽しげに波と戯れているのに、余の姿だけそこにない。
いつか、余もこうやってみんなで海に行きたいと思う。
今はまだ、そんなことはできないけれど、
王として足場を固めれば、少しくらいの休暇は許されるようになるだろう。
そうなるようにもっともっと努力せねばな。
そう思いながら余は眠りについたのだった。
【了】
そしてそれぞれの旅へ……