桐花


 

  桐花


最近、静蘭の様子がおかしい。

なんとなく、元気がない。

私としては、多少元気がないくらいのほうが、
苛められな、いやいや、過剰な口撃に遭わなくて済む訳だから、
実のところ大歓迎なのだけれど。

しかし、いつもの毒気がないとそれはそれでどうも落ち着かないと言うのも本心なのだ。

だからつい、お節介承知で聞いてしまった。

「静蘭、何か悩み事でもあるの?」

すると静蘭は食器を拭いていた手を止めて(因みにその食器と言うのは、私が洗ったものである)、
こちらを振り返る。

「藍将軍……」

すっと向けられたその瞳は、儚げでちょっとドキッとするほど美しかった、
と言うのは内緒の話なのだけれど。

けれどその美しい瞳は一瞬だけで、後はいつもの鬼の元公子様の笑顔に戻る。

「えぇ、漸く気付いて頂けましたか。
実は、まもなく当家の塩が尽きそうで。
普段ならお嬢様が賃仕事のお給料で買ってきてくださるのですが、
今年はそういうわけにも参りませんから。
けれどこのままですと
お嬢様に要らぬ心労をおかけする事になりかねないと
私も気を病んでいるのです」

要は、秀麗殿が受験勉強に専念できるように、塩を寄越せと、
美しい家人殿はそう仰っている訳である。

しかも私に相談(と書いてたかると読む)するというコトは、
ただで藍州産の、それも最上級の塩を手に入れようというわけだ。

藍家直系の名にかけて、質の悪い塩を渡すなんてことは、しない。

麗しの元公子様には、全てお見通しという訳だ。
静蘭に巻き上げられたと思うと気分が良くないので、秀麗殿へ差し上げたと思うことにしよう。

何となく、誤魔化された上に、
塩まで巻き上げられる事になって腑に落ちないけれど、
弟王と違って、元公子様はあまり真っ直ぐなご性格ではあらせられないので、
これ以上聞いても無駄だと私は理解した。

「塩、ね。では今度お邪魔するときにうちから持ってこさせるよ」

お望みの答えを返してやると、
静蘭はにっこりと笑って
「よろしいのですか? ではお言葉に甘えて」と心にも無い事を言う。

そしてその後は特に会話を交わすでもなく、食事の後片付けに戻ったのだけれど。

無言で食器を拭く元公子様の表情は、やはりいつもと違って少しの憂いを浮かべていた。

 


藍楸瑛に見抜かれるとは、私も堕ちたものだ。

そう思い、静蘭は一人自室で嘆息する。

まぁ、本当の心の中など、見せやしないけれど。

そっと庭に出て、仄かに灯の点いている室を見つめる。

お嬢様は今日も頑張りすぎていらっしゃるようだ。

そろそろお茶でもお持ちして、少し休憩をお勧めしなければ。

そう思い厨所へ向かい、お湯を沸かしていると、後ろから声を掛けられる。


「あら、静蘭」

振り返ればそこに、お嬢様が立っている。

「お嬢様、ちょうどお茶をお持ちしようと思っていたところでした」

「ありがとう。ちょうどお茶が飲みたかったのよ」

静蘭には私のことは何でもお見通しね、とお嬢様は笑うけれど、本当は知っている。
お嬢様こそ私の事は、何でも見通してしまわれる。
今だって、そろそろ私がお茶を入れるだろうと踏んで、厨所に来てくださったのを、知っている。

全く、お嬢様が賢すぎるのも困りものだ、そう思っていると、「ねぇ、静蘭」と声を掛けられる。
私は振り返り、笑顔で答える。

「どうなさいました、お嬢様?」

「ねぇ、ちょっとだけ、甘えさせてくれる?」

唐突な申し出に、驚き目を瞬かせていると、お嬢様は、それを否定の答えと取ったのか、
「やっぱり駄目よね、忘れて頂戴」という。

「お、お嬢様、駄目ではありません。ただ、珍しいなと思いまして」

「そう? いつも言わなくても静蘭が甘やかしてくれるからでしょう」

「そんな事はありません。お嬢様はご自分に厳しすぎます。さぁ、どうやって甘えていただきましょうか?」

「あのね、ちょっとだけ、胸を貸して欲しいの」

これまた意外な申し出に、私は再び瞬きする。

それにかまわずお嬢様は続ける。

「それでね、静蘭。これから言う事は、明日になったら忘れてね」

駄目?と見上げられて、否と答えられるはずも無い。

代わりに頷くとお嬢様が近付いてきて、その手がそっと私の腰に回される。

私もそっとお嬢様の背中に手を回す。

すぅっとお嬢様が大きく息を吸い込んで、そしてはっと吐き出した後、ぽつりぽつりと声が聞こえ始める。

「毎日毎日、家事も賃仕事も静蘭に任せて勉強しているのに、ちっとも安心できないの。
夜は、眠るのが怖い。眠ったら試験の日がまた一日近付くから。
それに眠ったら今日覚えたことも、忘れてしまいそう。
私、本当はちょっとだけ逃げ出したい」
 

黙り込んでしまったお嬢様を、ただ、抱きしめる。

「……静蘭、何にも言わないのね。
こんなに迷惑かけておいて、逃げ出すなんて言ったら、怒ってくれていいのよ」

「官吏になることが小さいころからのお嬢様の目標だったことも、
そのために今だって頑張っていらっしゃるのも知っています。
それに、お嬢様は逃げ出したいと思っても、
本当に逃げ出すことはなさいませんでしょう?」

本当に、お嬢様が賢すぎるのは困りものだ。

ここのところ遅くまで室の灯りが消えないことに私が気付いていることを、
お嬢様は気付いてしまわれたのだろう。


けれど、お嬢様は気付いていらっしゃらない。

本当のところ、逃げ出してくだされば、
ほんの少し私は安心するのだということを。

いや、もしかしたら本当は、気付いていらっしゃるのかもしれないとふと思い、
そしてそれは自分の希望にすぎないとすぐに否定する。


そんなことを思っている間に、腕の中のお嬢様がくすりと笑う。

「やっぱり駄目ね。静蘭は私に甘過ぎるわ。
それに、私を信用し過ぎよ。
でもそうね、私の目標の為だもの。
逃げたりしないわ。
もう女人国試は私だけの問題ではなくなってしまったけれど、
叶わないと思っていた事に一歩近づけたことは本当だし、
この機会を逃したら、もうその夢がかなうことは多分ないわ。
だから、出来る限りのことをするの。
自分の為にね」


「……そうですね。
お嬢様はご自分の事を一番に考えれば、それでよろしいのですよ」

「ありがと、静蘭」


そう言ってお嬢様は、私の胸に埋めていた顔をくっと上向ける。

「でもね、静蘭。
私にそう言うんだったら、静蘭も自分の事を考えてちょうだい。
私と違って日中は、武官のお仕事があるんだから、
私に付き合って起きてるのは、今日限り禁止ね。
静蘭が私の事心配してくれてるように、私の静蘭が心配なの」

にっこりと笑顔で言われて、反論を禁じられる。

私としたことが、お嬢様の仕掛けた罠にまんまと引っ掛かってしまった。


少しの名残惜しさを振り切って、ゆっくりとお嬢様の背中から両手を放す。

ちょうど一歩分だけ、後ずさって、両手を上げる。

寂しい顔など、見せる筈もない。

「全く、お嬢様には敵いませんね」

全て取り繕って対峙しているのに、その言葉だけは真実という皮肉。けれど、お嬢様は本当の意味になど気付かない。……気付かせない。

火にかけていたお湯がこぽこぽと音を立て始めた。

いつもより薄めにお茶を淹れるため、お嬢様に背中を向けたから、もう表情は取り繕わなくていいのに、張りついた様にして自分の顔が笑みを作っていることが分かる。

「その代わり、お嬢様。約束してください。食事と睡眠はしっかりと取ることを。もちろん、今日はもうお休みになるのですよ」

そう言いながら、薄めに入れたお茶を渡すと、お嬢様は、仕方ないわねと笑った。


ゆっくりと、二人とも無言のままでお茶を飲む。

その時間は、ひどく幸せで、そして少しだけ、落ち着かない。

薄めに入れたお茶なのに、旦那さまのお茶よりも、もっと苦く感じるのはどうしてだろう。


何かが、そっと足音を顰めながらやってくるのを感じながら、その正体がわからないことへの焦り。

お嬢様とは違う意味で、明日など来なければいいのにと思った。


けれど。

さっきから、顔に張り付いたままの笑顔で、お嬢様がちょうど飲み終わった茶杯を受け取る。

「さ、片付けは私がお引き受けしますから、お嬢様はお休みになってください」

「ありがとう。じゃ、お願いね。静蘭ももう休んでね」

そう言ってお嬢様は室へと戻っていった。


卓子の上に茶杯を二つ並べて、その前に座る。

刻一刻と迫ってくる何かから逃れたいと思うのに、なぜか体が動かない。

そのまま、そっと静かに目を閉じた。


「……静蘭、静蘭ったら! どうしてこんなところで寝てるのよ?」

「……お嬢様? なぜ、ここに?」

「多分静蘭と同じ理由じゃないかしら?」

「確かに、燕青だけでは庭の手入れはともかく、掃除はどうも心配ですからね」

そう言いながら、立ち上がりお茶を入れる為にお湯を沸かし始める。

当然、燕青の選んだ茶葉など当てにはしていない。
きちんと自邸から高価ではなくとも味の保証のある茶葉を持参した。
そして、厨所に来たところで、少し昔の事を思い出して、
懐かしい思い出の残る椅子に座ったのだった。
卓子を撫でながら思い出に浸るうち、転寝をしてしまったらしい。


お嬢様は二年前に、李絳攸殿のところへ嫁いだ。
旦那様は、紅家当主として紅州と貴陽紅邸を行ったり来たりされている。

私も妻を娶ってこの家を出たから、
かつて、旦那さまとお嬢様と、そのもっと前は薔君奥様とも過ごしたこの家に住んでいるのは、
今や燕青一人という、おかしな状況だ。

実のところ、お嬢様がこの邸をお出になるときに、
私も燕青もそれぞれ別に居を構える事を申し出たのだが、お嬢様も旦那様もそれを拒否された。

「誰かが住んでてくれる方が、安心だわ。私達の大事な家ですもの」

お嬢様がそうおっしゃると、旦那様も静かに頷いた。
私がこの邸を出るときにも、同じ会話が繰り返された。


「静蘭、お茶を入れてくれるなら、燕青も呼んでくるわね。
さっきから、静蘭が戻らないって文句言ってたわよ」

そう言って出ていくお嬢様の背中に声をかけ、呼びとめる。

「お嬢様」

「なぁに、静蘭?」

「お嬢様は今、幸せですか?」

唐突な質問に、お嬢様は少し首を傾げ、しかし笑顔で答える。

「幸せよ。静蘭は?」

「はい、とても幸せです」

自然に笑みがこぼれるということ自体、ずっと、した事のないことだったから。

「良かった、じゃあ、十三姫は、幸せ者ね」

突然出されたその名前に、少しだけ驚き、聞き返す。

「妻が、幸せ?」

「ええ、静蘭のそんな顔、毎日みてるんでしょう、十三姫は?」


やはり、お嬢様が賢すぎるのは考えものだ。

私は、絳攸殿の苦労を思い、
少しの同情とそれより大きな満足感を味わったのだった。


【了】

 

あとがき、という名の言い訳

最期までお読みいただきありがとうございました。
拙宅のお客様は、やはり李姫支持の方が多いようで
それは私が最初李姫ばかり書いていたので、
それを考えると大変ありがたいことなのですが
絳攸さんの出てこない、静蘭と秀麗のお話は、大変にドキドキとしながらUP致しました。

タイトルについて。
桐の花、紫色なんです。
紫と言えば、菫や、藤がまず浮かびますが、実は桐の花も薄紫。
そして、日本の文化として、女の子が生まれたら桐を植え
お嫁入りのときにはその桐でつくった箪笥を持たせるという風習もあります。
桐の箪笥は密閉性が良く、高級家具の代名詞でもありますね。

かたや静蘭さん。
お嬢様離れがなかなかできず
こっそりと大事に、お嬢様をしまっておきたかった
そうすることで、清苑の時に一度壊れてしまった自分の世界を守るのに必死な可愛くて可哀想な人。

私の中でのこの時期の静蘭はそんなイメージです。
茶州から帰ってきて、吹っ切れた静蘭ももちろん素敵で大好きですが。
私の大好きなうじうじ静蘭を書いたら、どうも暗いお話になってしまいました。

最初にイメージしていたのはニ/モ。
息子離れできないパパのお話を見ながら、考えていたのですけど。
ニ/モとは似ても似つかぬ、湿っぽいお話で申し訳ありません。

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2010/08/01 小鈴