銀冠

 

 

闇を湛えた宙のなか、しゅるりと上って散る花火

 銀冠 (ぎんかむろ)


 

 

 

 

 

 

 

その夏は殊の他暑かった。
例年よりも長かった梅雨が明けるやいなや、
この時を待ちわびていたとでも言うように肌を刺す太陽。
フル稼働させられたエアコンが、容赦なく排気熱を吐き出すせいで、
通りは日陰でも灼熱だ。


そんな中を涼しい顔で歩いている青年がいる。
彼の名は静蘭。
普段、仕事を終えた彼が帰宅する時間は、もっと後。
けれど今日は、夜間からの勤務の同僚とシフトを交代したために、
日中でも一番暑い時間に帰宅することになったのだった。

この暑さは正直不快だが、夜勤手当は馬鹿に出来ない。
これから訪れる台風の季節の前に、
屋根も塀も修理しておきたいところは数えきれない。
同僚から相談された静蘭は、瞬時にそんなことを計算した。
そして笑顔を保ったままで、
一回分の自宅の食料品の買い出し代金を彼に肩代わりしてもらうことを条件に
シフトの交代を快く引き受けたのだった。

もちろんその一回は、長持ちする保存食品を中心に、
普段は買わない(倹約家のお嬢様が買うことを反対される)
最高級のコシヒカリや、松阪牛なども買うつもりであることは、同僚はまだ知らない。


それにしても、今日は暑い。

帰ったら、お嬢様に何か冷たい菓子でも作って差し上げよう。
そんなことを考えると、
暑さの中でも少しも崩れることのなかった静蘭の表情が少しだけ緩む。


お嬢様は今、高校の夏休み期間だが、
受験生と言うこともありアルバイトはしないで家にいる。
根を詰めすぎない様に、
今日はゆっくりとお茶の時間をとっていただこう。
そう思いながら自宅のドアを開けた静蘭は、
三和土にきちんと揃えられた靴を見て、眉をひそめる。


「あら~? お兄さん? お帰りなさい。今日は早いのね~」

そう言って静蘭を出迎えたのは、
彼の愛しいお嬢様にして義理の妹の秀麗、
ではなく、その友人の蛍だった。

秀麗の同級生だという蛍だが、
藍財閥の総帥の妹と言う生粋のお嬢様である。

しかし静蘭は、この少女が正直言って苦手であった。

何かにつけて静蘭が秀麗に対して過保護だと口を出す。
その上、他の人間相手では、めったに口で負けることのない静蘭にも臆せず喰ってかかる。
兄の友人だか何だか知らないが、
秀麗と家庭教師の仲を取り持つようにしていることも気に食わない。

その割に不意に見せる顔は、憂いを含んでいて、
そんな時はとても秀麗と同い年には見えない程に艶っぽく、
そして普段の彼女と真逆に、他人を全て拒むような雰囲気を醸し出している。

会話の途中に一度その顔を見て以来、何故だか分らぬが
静蘭の心の中に突然その時の彼女が浮かんでは消えるのも、不可解だった。

それにしても、なぜ彼女が一人でいるのか?

そんな静蘭の疑問を察したように、蛍が話し始める。
「私ね、今留守番中なの。秀麗ちゃんは、スーパーのタイムセールに行ってるわ」

その言葉で、漸く状況が飲み込めた。
夜勤明けでなければ、間違いなく自分も同行したのだが、
流石に今朝の新聞広告までは確認できていない。

本来であれば、秀麗を追いかけて自分もスーパーへ向かいたいところだが、
流石に客人を一人残して自分まで出かけるのも気が引けた。

仕方なく、靴を脱いで上がりながら、蛍に声をかける。

「おもてなしもせず、留守番をお願いして申し訳ありません。
今冷たいお茶をお入れしますね」

そう言ってキッチンへ向かう静蘭の後ろを蛍が無言でついてくる。

数歩行ったところで静蘭は立ち止り、振り返る。

「客間でお待ちいただいて大丈夫ですよ」

暗についてくるなと伝えたつもりだったが。

「キッチンでいいわよ。
準備したり片づけたりそういうのって無駄じゃない」

そういうと蛍は、静蘭を追い越してキッチンへと向かう。

この邸で秀麗とともに菓子作りなどもする蛍にとっては、
使用人に阻まれて厨房には出入りできない自邸より
はるかに勝手がわかっているのかもしれない。

静蘭は仕方なくその背中を追いかけたのだった。

 

 


銅のケトルでお湯を沸かしながら、
いつもより少し多めの茶葉を入れる。

選ぶのはもちろん、アールグレイ。

ぐらぐらとお湯が沸いたらポットに注いで、
いつもより長めに蒸らす。

その間にグラスを氷でいっぱいにし、
蒸らし終わった紅茶を一気に注ぎ込む。

そして仕上げにグレープフルーツを絞って入れ、ミントを飾れば完成だ。

静蘭が一連の作業を無駄なく進める間、
蛍はキッチンのテーブルに両肘をつき、
じっと黙ってその様子を見ていた。

その視線はなんだか、静蘭を酷く落ち着かなくさせる。

そんな気持ちを追い払うように、マドラーをくるりと一周させた後、
静蘭はそのグラスをテーブルの向かいに座る蛍へと差し出す。


ありがとうと言いながら、蛍が少し身を乗り出すようにして受け取ろうとする。


その瞬間、少し前かがみになった蛍のタンクトップの胸元がたわんで、
透き通るような白い肌が静蘭の目に入る。


「……ちょっと、何の意地悪よ。くれるんじゃなかったの?」

いつまでたってもグラスを離そうとしない静蘭に、
蛍は不満の声を上げる。

「あ、あぁ、すみません」

平静を装ってグラスを渡した静蘭だが、
むくむくと心の中に怒りがわいてくるのを感じていた。

何故、自分がこんなに心を乱されなければいけないのか。
そもそもいくらこの家が冷房もなく暑いからと言って、
年頃の娘がタンクトップとショートパンツだけというのはあまりに無防備ではないか。
この格好で駅まで歩き、電車に乗って帰宅するというのか。
それでなくても、蛍のずば抜けたスタイルは人目を引く。
それは秀麗と蛍が出かける際に半ば無理やり付き添いをしたときに嫌というほど目にした。

それなのに、蛍は、そんなものは一向に気にしない様子なのだ。
だからこそ今日もこの様な格好で来たのだろう。


静蘭は無言で立ち上がりキッチンを出ていく。
蛍はそれに不満を言うでもなく、
アイスティーを味わいながらただその背中を不思議そうに見送った。


五分後、戻ってきた静蘭は手にした上着を無言で差し出す。
意味がわからず蛍は手をひらひらと振る。
「……暑いからいらないわ」
「暑いとかそういう問題ではありません」
「じゃあ、どういう問題なのよ?」
「何でもいいでしょう、とりあえず着てください」
「説明もなくただ着ろだなんて横暴よ」
「……しすぎです」
「え? 何よ、はっきり言いなさいよ」
「だから、その服は露出しすぎだと言っているんです!」
「べ、別にいいじゃないそんなこと」
「良くないから言っているんです!」
「なんでアナタに怒られなきゃいけないの? 大体見ても不快に思われない程度にはきちんと手入れしてるわよ!」
「!!! てっ、手入れとか、そんな問題をお話ししているのではありません」
「はぁ? ワケわかんないわねぇ」
「と、とにかくこれを着てください。というか着るんです!」
静蘭のあまりの真剣な表情に、流石の蛍も根負けし、上着を受け取って袖を通した。

相変わらず訳がわからない蛍だったが、
渡された上着の着心地は思ったほど悪くない。

蛍と静蘭では身長が違うから、
半袖は七分袖に、裾もショートパンツを覆い隠すほどの長さになってしまう。

それに気付いたら蛍までなんだか落ち着かなくなって、
沈黙のまま過ぎていく時は酷くゆっくりと流れているように感じた。

なんだか居心地が悪くて、蛍は手持無沙汰の両手で裾を握る。

その様子を見ながら静蘭は笑う。
「どうしたんですか? 急に大人しくなって。全く貴女らしくない」
「わ、私らしいって、どんなふうに思っているのよ?」
「いつも通り、賑やかなのが貴女だと思っていますよ」
「う、うるさいわね。私だって静かに考えることもあるんです!」

それを聞いた静蘭は急に不機嫌になり、さっきよりもツートーン低い声で問う。

「何を?」
「え?」
「何が貴女をそんなに……」

そう言いながら一歩蛍に近づいたのは、
今まで知っている“秀麗の優しいお兄さん”ではなくて。

蛍の中の何かか、逃げろと警告を発している。

そしてそんなときは自分の中の感覚に従うのが蛍の主義だった。

「わ、私、用事を思い出したから帰るわね!」
静蘭がもう一歩近づくよりも先に蛍は立ち上がり、出て行った。

そんな彼女に静蘭が驚いている間に、
秀麗の部屋に置いていた自分の荷物を手に取ると、
ばたばたと蛍は出て行った。


テーブルの上に残されたアイスティーの氷が解けて、
カランと小さな音を立てた。

その音に我に返った静蘭はくつくつと小さく笑う。
先程突然に湧き上がり、爆発した気持ちが、今はその破片をきらきらと散らしているようだ。

今日は、逃げしてやったけれど、
そう何度も同じ手をくらったりはしない。

気付いてみれば簡単なこと。

ただ、彼女をこの手に入れたい、それだけ。

「せいぜい逃げてごらんなさい」

静蘭は一人呟く。

逃げられれば逃げられるだけ、
捕らえたくなる事は明白なのだけれど、
そんなことまで彼女に教えてやる必要はない。

ゆっくりと、そして確実に、網を張り巡らそう。

彼女がこの手に落ちるのは、もう決まったことなのだから。

【了】

 

 

あとがき、と言う名の言い訳



粘着質。
ちょっと怖い、かしら?
私の中では、腹黒かわいいの範囲内なのですが。
気持ち悪かったらすみません。

同軸で進行している李姫だとか、蛍が借りて帰った静蘭の服について藍家で巻き起こるアレやコレだとか、書きたいネタは取りこぼしたままなのですが、今回はひとまず静蘭→蛍だけ取り出して書きました。

落ち着いたら、そのうちに、他のネタも書けると、いいな。(妄想に近いレベルの願望)

と、ここまで書いておいてなんですが、私は現パロでも“十三姫”と呼びたいのです!
蛍は迅のものだから。
でも現パロで十三姫ってないよなといつも葛藤。
今回は蛍にしました。
そのうちこそっと十三姫に置換してたら笑って下さい。

それか、付き合い始めて姫と呼ぶようになるエピソードを書くか。
そのほうが生産的ではある。
自己満足だけど。

2010/08/29

 

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