あか、あお、きいろ
この世はまるで極彩色に
きん、ぎん、すあか
光に満ちて
けれども一番美しい、私の猫のしろいくび
そこを飾るにふさわしい、色ははてさて何色か
うへの限り黒くて、腹いと白き
猫を、拾った。
銀色の細い体躯に、菫色の瞳。
けして人には懐かぬ、高貴な猫。
夜通し降り続いた雨に身を冷やして、それ以上に冷え切った何かを抱えるようにうずくまり、その猫は震えていた。
彩雲国の都、貴陽の街の中。
宮城からさほど離れていないけれど、大通りからの喧騒からは少しだけ遠ざかる場所にある楊修の邸の勝手口の側、僅かばかりの軒の下で。
朝餉の準備にやってきた通いの下女が、その猫を見つけた。
銀色の髪、細い体、いつも透き通るように白いその肌は今日は青ざめて震えながらも、その菫色の瞳だけは変わらぬままに。
「……、まったく、どうやってここに辿りついたのですか? なんにせよ、君にしては上出来です。褒めてあげてもいい」
その言葉に、菫色の瞳が僅かに揺れた。
拾えるような場所に追い込んだのは自分なのだけれど、そんな事は構いもせずにそう言って、楊修は絳攸の冷えた細い手首を掴んだ。
その手首の細さが、出会った頃の、まだ少年と呼べる年頃だった彼を思い起こさせる。
何度も、彼とともに朝日を浴びた。
史上最年少で状元及第を果たした少年官吏は、噂に違わず飛びぬけて優秀な頭脳を持っていた。
けれど、ここは悪鬼巣窟と呼ばれる吏部。
理屈だけの頭でっかちな少年の矜持は、すぐさまぼろぼろになってもおかしくない場所。
けれど、少年の瞳は、いつも、ただ一点を真っ直ぐに見つめて、その顔が俯く事は無かった。
後見人が、あまりの若さが、そしてその容姿が。彼の持つものをやっかむ輩の与える心ない言葉も、理不尽な仕事も、ただ一瞬だけ唇を引き結び爪が白くなるほどに拳を握りしめた後は、驚異的な速さで仕事をこなしていく。
それが、李絳攸だった。
自然、彼は吏部の中でも複雑で難解な仕事を任されることが多くなっていく。
そうして、解らないことが出てくると、彼はそっと、楊修のもとにやってきたものだった。
それは大抵、他の官吏達が、あるものは久方ぶりの帰宅を、またあるものは仮眠室へと消えていったその後で。
そうして、昼間の喧騒とは打って変わって静寂を湛えた吏部の中、握った書類を背中に隠すようにして、そっと絳攸はやってくる。
そっと、近くも遠くもない距離で楊修の様子を窺って、筆が止まるのを待っている。
その時だけは、彼の菫色の瞳が確かに自分を見ている。
その事を知っているから、楊修はその視線に気付いても、あえて書き物を続けるのだった。
それでも、筆を硯につける瞬間や新しい料紙を取ろうとする瞬間に、ほんの少しだけ、隙を作ってやる。
そうすると、絳攸はその隙を逃さずに必ず「あのっ、楊修様!」と声をかけてくるのだけれど、楊修はそこで初めて気が付いたかのようにして「ああ、君ですか。どうしたのですか?」と答えるのが常であった。
そんなことを繰り返しながら、まだ二十歳にもならぬ少年官吏に、除目の準備も、査定の事も全てを叩きこんだのは、楊修だった。
そうしていつか、彼が自分を超えていくものと願っていた。
そう、官吏として。
けれど、いつまでたっても、彼は変わらなかった。
齢二十歳を超え、吏部の中にとどまらず、若手官吏としてその有能さが宮廷全体に知られるようになってもまだ、彼の菫色の瞳が真っ直ぐ見つめる先は、黒く長い髪をして、ふらふらと宮廷内を歩き回り、気が向いたときにだけしか仕事をしない、彼の養い親ただ一人だった。
仕事はすべて容赦なく叩きこんだけれど、一番大切なものだけは、どうしても彼自身に掴んで欲しかった。
彼の手を取って、容赦なくこちらを向かせ、言葉で説いて教えるのは、簡単な事だったと思う。そして、そうすべきだったのかもしれないとも、今になって思いもする。
けれど、そうではなく、絳攸自身に気付いて欲しいと、それはきっと楊修自身の為の願い。
結局、楊修の思いは届くことは無く、手塩にかけて育てた官吏を、楊修自身の手で追い落とす事になってしまった。
牢で眠っていた絳攸を思い出す。
吏部侍郎の印は簡単に投げつけたその手で、意識を失ってもなお握り続けていたのは王より下賜された「花」ただ一つだけ。
眠り続ける彼を見て、呆れ、絶望し、そして、彼の掌の中の「花」を見て、少しだけ、心の奥で何かが焦げるような、そんな気がした。
「本当にわからないというんですか、君は」
本当はわからないままでいて欲しいと、少しだけ思っていた。
「どこまで私を幻滅させるのです」
ちがう、言いたいのはこんな事じゃない。
君の世界に、いつも私はいない。
いつになったら、どうやったら私のほうを振り向くのだ。
あの深夜の吏部で、そっと息を殺してじっと背中を見つめる視線が、懐かしくそして憎らしい。
いつまで、無邪気なままで、汚れのないままで輝いているのだ。早く、堕ちてこい――この手の中へ。
そうして、今日、漸くこの手の中に迷い込んできたこの猫を、もう逃がしてなるつもりなどない。
絳攸の冷え切った細い手首をそっと引くと、青白い顔をあげて「ようしゅう、様?」そう呟く。
その声は姿に似あわず、どこか安堵を感じさせるもの。
思えば吏部侍郎になってから、自分を呼ぶ絳攸の声はいつもどこか不安げであった。
「楊修様」と、そう呼びそうになるのを、呼びたいのを、辛うじて抑えて、楊修と呼び捨てにしている様な、不自然さと、不満さと、寂しさとそんなものが混じった声で、いつも絳攸は呼んでいた。
さながら、人に慣れぬ猫が、しかし少しの距離を保ちながらじっと見ているようなその姿。
それが今、「楊修様」と呼ぶ絳攸の声は、か細いながらも、親の元に帰った仔猫のように、少しの甘えとそれより大きな安堵とを自然に含んでいた。
緩みそうになる頬に力を込め、少し眉根を寄せて楊修は言う。
「いつまでそうしているつもりですか。たかが風邪でも、こじらせると厄介なのを知っているでしょう」
わざと、呆れた声を出した。
その声を、本当に怒っていると絳攸は思ったようだった。
「申し訳、ありませ……」
先ほどとは打って変わった不安げで消え入りそうな声でそう言いながら、立ち上がり、何処へか去ろうとして、一歩踏み出したところで細い体が崩れおちる。
泥濘にその白い体が沈むその前に、腕の中に抱え上げる。
モウキミハワタシノモノ
「……よう、しゅう、様の、衣に、汚れが」
「今更同じことです」
「しかし……」
「一刻も早く衣を変えて、温まることが必要です。君も、私も」
ホカノバショニカエルナンテユルサナイ
湯殿は、温かな蒸気で満たされていて、それだけでも冷え切った体にはありがたかった。
勝手口の側に人がいると、そう下女が告げに来たときに、朝餉よりも先に湯殿の準備をするように告げたのは楊修だ。
衣も脱がぬまま、腕の中の絳攸も離さぬままに湯船へと身を沈めると、わいたばかりの湯が、湯船の端から音を立てて流れ出る。
温かな湯が衣にしみ込んで、二人はますます身動きも取れなくなる。
それが、楊修には心地よかった。
オイカケテイタノハキミデハナクワタシノホウダッタ
絳攸の、後頭部へと手を差し入れ、無造作にまとめられた髪をほどくと、冷たい滴がぽたぽたとおちる。
そのひと滴が頚筋を伝ったのか、絳攸が不意にビクリと身を震わせた。
その様子に、不意に笑いがこみあげて、銀色の髪を撫でながら楊修は言った。
「取って食べたりしませんよ。ゆっくり温まるといい。替えの衣は用意させよう」
そういうと脇に置いた眼鏡を手に取り、衣から落ちる滴もそのままに楊修は湯殿を後にした。
東の島国では、貴人は猫に首輪と紐をつけ、逃げぬように、繋いでおくものらしい。
さて、この猫には何色の首輪が似合うだろう。
紅色でないことだけは確かだが。
そう思いながら、楊修はもう一度、笑った。
あとがき、と言う名の言い訳
……いきなり意味不明のお話で申し訳ありません。
このお話に至った経緯を簡単にお話しますと、
例によってツイッター発なのですが、
交流させていただいているフォロワーさんがなさっていた診断メーカー
“「早朝の浴室」で登場人物が「髪を撫でる」、「猫」という単語を使ったお話を考えて下さい。”
これに、何やら色っぽい匂いがして素敵、と飛びつき、楊修さんと絳攸さんで書かせていただきました。
なんだか、力及ばずな感じ。
書くのは楽しかったのですけれど。
もっともっといろいろお話を書きたいなと改めて思いました。
質・量ともに高めてゆきたいものです。