初雨

初雨


昨夜からの雪は、いつの間にか雨に変わっていた。
空気は相変わらずの冷たさだけれど、こうして少しずつ春がやってくるのだと思うと、なんだか無性に嬉しくなって、絳攸が一人笑みを零した時だった。

目的の邸に着くには随分と早すぎる大通りで軒が止まる。
どうしたのかと供に声を掛けようか迷っていると、「あの」と遠慮がちに軒を覗き込む御者の顔が目に入る。
「どうした?軒の調子でも悪いのか?」
紅家の家人は主に似ず細やかな気遣いを心得ているから、軒も良く手入れされているのだけれど、雪と雨でぬかるんだ通りには、あちらこちらで軒が立ち往生している。
絳攸の問い掛けに、御者は申し訳なさそうに頷く。
「申し訳ありません。轍にはまってしまったようで……。抜けるのに少し時間がかかりそうです」
そういいながら白髪の目立ちはじめた頭を何度も下げる御者を制して、絳攸は軒を降りた。

「焦らなくても良い。一旦邸に戻って、何人か連れて来るしかないだろう」
焦って動かそうとすればするほどに、かえって深く泥濘に沈んでいく軒を見て冷静そう言うが、御者も、それでは絳攸さまがお約束に間に合いませんと顔を青くする。

今日は久しぶりに邵可邸を訪ねることになっている。
半月ほど前に川に落ちて風邪を引いた秀麗も、五日ほどで回復したと手紙は貰っていたのだが、自分が訪ねれば無理をしてでも課題に取り組む姿が目に浮かび、暫くは国試の事を忘れて養生するようにとだけ返したのであった。

昨日盛大な厭味とともに静蘭が届けてくれた秀麗の手紙には、見舞のお礼をしたいのですがお忙しいですか?とあった。
十日ぶりに目にしたその文字は、丁寧に綴られたことが一目で解る。
三日に一度の勉強会に慣れた絳攸は、どこか懐かしい気持ちになり、長くはないその手紙を何度も何度も読み返した。

そして今日、折角の誘いを無下にするわけにもいかぬと、誰にともなく言い訳をしながら、定刻には吏部を後にしたのだが、運悪く軒は立ち往生している。
空を見上げれば、幸いなことに雨も止み、傾いた太陽も山の陰に隠れるまでにはもう少しだけ時間がありそうだ。
通りに目をやれば、何度か静蘭に連れられて訪れたことのある店の近くのようだ。ここからなら、邵可邸まで歩いても苦にならない。
折角だから、何か手土産でも買っていこう。そう思い立ち、絳攸は足取りも軽く歩きはじめたのだった。

――近頃は、貴陽にもあやかしが出没するのだろうか? 軒先で雨宿りをしながら絳攸は思った。
四半時ほどで着く筈なのだが、御者と別れてから既に一刻ほど。
一度は上がった雨が、再びしとしとと塀を濡らしている。
傘を持たずにいたので一先ずは避難をして見たけれど、一向に降り止む様子は無いうえに水を吸った衣に体温を奪われ指先がかじかんできた。

あの人に拾われた日の事を思い出す。
帰る場所も待ってくれる人もなく、ただ途方に暮れていた。
もちろんあれはただの気まぐれで、そしてここで待っていてもあの人が迎えに来てくれる事など無い。
それでも尚、淡い期待を捨てる事の出来ない自分に乾いた笑いがこみ上げる。
雨よりも温かなものが一滴、頬を伝い落ちた。
あの人が拭ってくれる筈も無く、自分で拭うことすらも億劫で、冷たい滴も温かい滴もただ流れるままに、空を見ていた。

ふと気がつけば、雨粒が傘を叩く音。そっと、頬にあてられた手巾越しに伝わる温もり。
風に揺れる艶やかな黒髪は、あの人と同じ。けれど、その温もりはあの人からは得られないもの。
「……しゅう、れい?」
いつの間にかそっと傘を差し出してくれたのは、今日訪う筈だった愛弟子。
何も聞かない。何も言わない。
二人の間にはただ、雨の音。
差し出された手巾を受け取れば、空いた右の手はそっと絳攸の袖口に添えられる。
その仕草で、解ってしまった。彼女が自分を探してくれた事が。
そして、彼女が心から自分を案じてくれている事が。
だって、それは何時かの自分と同じで。
気まぐれなあの人の帰りを息を顰めて待っていた、あの頃の記憶。

そんなことを知っている筈がない。
ただ、優しい彼女の事。約束の刻限を過ぎても現れぬ自分を気遣って、探しに来てくれただけの事だろう。
それは面倒を見ている近所の幼子でも、市で顔見知りの老人でも同じこと。
それでも、今日は自分を探しに来てくれたのだと思えば、其れだけでも何処か暖かくなる。
そして、この少女なら、きっと何度でも自分を探してくれるだろう。そう思ったら、また涙が零れそうになる。

何でもいいから、この静寂を埋めなければとそう思うのに、気の利いた言葉の一つも出てこない。
この鼓動が秀麗に聞こえてしまわない様に、せめて雨音がもっと響けばいいのにと、そんなことを思った。
沈黙を破ったのは、秀麗の言葉。
「絳攸様、今日の夕餉は、鶏と葱の炒め物にしようと思うのです」
いつもと変わらない、何気ない言葉。それが何よりも、優しい言葉だと今なら分かる。だから、ただ、頷く事で応える。
「ですから、絳攸様。お買いもの、手伝ってくださいますよね?」
黒い瞳に敢えて気遣いなど見せはしない。それこそが、彼女の本当の優しさ。

一つの傘の中、肩を寄せ合いながら二人は歩く。
その姿を、雨が優しく包むのだった。

【了】




まだ、生まれたばかりの気持ちは
絳攸本人ですら、気付いていない。
このころに気付いていたらとも思うけれど
気付かないでゆるいふたりも好きです。
このお話は、私の中では以前に某様に捧げた政略結婚な二人のずっとずっと前のおはなし。

ちなみに元々はついったネタ。
相合傘をする絳攸と秀麗 がお題でした。
皆様がすらすらと書きあげる中で、一か月後とかにこっそりUP。
マイペース仕様。

2011/02/22 小鈴