あまくてにがい


あまくてにがい




 
 計画は完璧な筈だった。
 唯一にして最大の誤算は、彼が自分の兄弟の事を忘れていた事である。
取り返しのつかない惨事であった。ただし、彼・藍楸瑛にとってだけの惨事であるが。
 
事は十日ほど前にさかのぼる。
 その日の宮城はどことなく浮足立っていた。
無理もない。あと三日ほどで、新しい年が訪れる。
新年を迎えるこの時期だけは、警備や王の私的区域など一部の部署を除いては、年に一度だけのまとまった休みが与えられる。
日頃は鬼上司に顎で使われている新人官吏も、尚書の気まぐれに振り回されている某部署も、今日一日を終えれば暫しの休息と思えば、自然と足取りも軽くなるのであった。

「そなたたちは良いな。どうせ家族や、秀麗とわいわい仲良く楽しく新年を迎えるのであろう?」
 彩雲国の王・紫劉輝が、その澄んで大きな瞳を零れそうなほどに見開いて、心底恨めしそうにするのを藍楸瑛と李絳攸は生温かい目で見守っていた。
 彼らとて鬼ではない。王としての重責を担う劉輝の日々の努力は一番間近で目にしている二人としては、秀麗の手料理くらい食べに行かせてやりたいと思わない訳ではない。
けれど、当の秀麗から「年末年始の忙しいときに、あの馬鹿が何かやらかさないようにしっかり言って聞かせてくださいね」とキツク言い渡されている事もあって、「後で様子を話してやるから」としか言えない二人であった。
 なんとか劉輝を宥めすかして、二人も退出する。軒宿りまで辿り着いたところで、不意に楸瑛の足が止まった。

「おい? どうした?」
 不審げに首を傾げる絳攸に、楸瑛はただ、頭を横に振る事しかできない。彼の顔には、尋常でない量の汗が噴き出している。
「こ、絳攸。私はそう言えば、まだ羽林軍がらみの仕事を残したままだったよ。悪いけど、ここで失礼させてもらうよ」
 そう言いながら後ずさる楸瑛に、無人の筈の彼の軒の中から声がかけられる。
「大丈夫だよ、楸瑛。私たちがきちんと大将軍に話をしておいたからね。新年の鍛錬で頑張ればそれでいいと、快くお赦し頂いたよ」

良い兄と良い上司に恵まれて君は幸せだね。そう言いながら軒を下りてくるのは、楸瑛によく似た雅やかな美貌の青年。
それもそっくりな顔が三つ。
これが噂の、藍家の三つ子当主かと野次馬気分で見物を決め込んでいた絳攸だったが、あっという間に三つ子に取り囲まれる。
「楸瑛がいつもお世話になって悪いねぇ」
「君は綺麗な顔をしているね。黎深のところなんか出て藍家においでよ」
「花、それは良い考えだね。黎深への嫌がらせが出来て、楸瑛もうちに帰ってくる。一石二鳥だね」
「ああ、こうしてはいられない、善は急げだ、早速藍州へ帰還しよう」

べたべたと顔や体を触りながら、好き勝手にしゃべる三人に、もはや絳攸の思考能力は停止して、ほとんど石化してしまっている。
楸瑛もできる事ならいっそ、石になってしまいたかったけれど、そうなってしまえば絳攸がどんな目にあわされるか分からないとなんとか声を振り絞る。
「ああああ、兄上。どうして、貴陽に?」
 先王の時代に朝廷の仕事を辞して以来、兄たちが藍州を離れるのは珍しい。
ましてや、新年のこの時期は、藍州内だけではなく、彩雲国内から沢山の人々が藍家本邸を訪れる筈だ。
その兄たちが、なぜ貴陽の、しかも宮城内などにいるのか。
 限りなく悪い予感しかしないけれど、それでも、今兄たちがここにいるということ以上に悪い事も想像できずに、理由を問えば、兄たちはその美しい顔を揃って悲しげに歪ませた。
その顔があまりに美しく、そして邪悪で楸瑛はまた身震いする。

「どうして? 君がそれを聞くのかい、楸瑛?」
「君が今年は藍州に帰らないって言ったんじゃないか」
「そうだよ。私たちが、可愛い弟に会えなくて、どれほど寂しい思いをしているのか君は考えた事もないだろうね?」
「君が帰ってきてくれない事には疑問を禁じ得ないけれど、私たちは理解のある優しい兄だからね」
「そうだよ。こんな素晴らしい兄の弟に生まれて楸瑛は幸せだね」
「全くだよ」
「「「そういうわけで、私たちが、君の邸で新年を迎えることにしたのだよ」」」
 矢継ぎ早に放たれる声が最後には一つに収束する。それはひどく美しく、そして恐ろしい響きだった。

ああ、本当に、気を失ってしまえたならばどれほど幸せな事か。楸瑛は空を仰ぐ。
けれどこの兄の弟に生まれてからの経験が、現実逃避をしても事態は良くなりはしないという事を教えてくれる。
 楸瑛は大きく息を吸い込むと、未だ石化したままで兄たちに囚われている絳攸をなんとか奪い返して紅家の軒に押し込み、続いて自らの軒に乗り込んだ。
 それを見た兄たちは満足そうに次々と楸瑛の軒に乗り込んでくる。
御者に出発を命じる兄の声は、楸瑛の心とは反対に明るくて、その事も楸瑛を一層いらだたせたけれど、これはただの序章に過ぎないということにこのときの楸瑛はまだ気づいていなかった。

四人で乗りこんだ軒は、いつもよりも揺れが少ない。それが自らの心と重なっているようで、そっと溜息をつく。
通い慣れた道なのに、千里よりもまだ遠く感じるのは何故だろう。
先ほどの溜息が聞こえたのか、正面に座った兄と目が合って思わず視線を逸らす。幸いにして咎められることは無かったけれど、これからの数日の事を思えば楸瑛の心が晴れる事は無かった。

千の夜よりも長いかと思うほどの沈黙の後、ようやく自邸へと辿り着く。心安らぐ筈の自邸で楸瑛を出迎えたのは、ぴーひょろぴという世にも間抜けで奇怪な聞き覚えのある笛の音だった。
「愚兄その一からその三、愚兄その四は我ら共有のもの。わたしをのけものにしようなど、画策しても無駄だ」
 もはやどこから突っ込んでいいのかもわからない。
新年を迎えるせいか、いつもにも増して極彩色に彩られた頭、相変わらず聞く者の気力を確実に奪う恐怖の笛の音、そしてそのずれているようでいて的確に心を抉るその言葉。
改めて見渡して、自分は本当にこの兄弟たちと血が繋がっているのか疑いたくなる楸瑛であった。

そんな楸瑛にお構いなしに、弟は言葉を続ける。
「愚兄その四、喜ぶがいい。無粋な愚兄にも風流な新年を迎える事が出来るように、わざわざ来てやったぞ」
「ははは、そうだネ。素敵な兄と弟に囲まれて、私は本当に幸せだヨ」
 破れかぶれというのは、こういう時の為にある言葉なのだと、身をもって知ってしまう。
美姫達に囲まれて優雅に新年を迎える筈だったのに、何を間違えてこうなったのか。誰か知っているのなら教えて欲しいと心の底から思う。
「ちょっと、三兄さまも龍蓮兄さまも、あんまり楸瑛兄さまを苛めないであげてよ!」
「……十三姫、きみも来ていたのかい?」
「あら、当然よ。それとも男兄弟だけで水入らずの方が良かったかしら?」
「いや……、きみがいてくれて嬉しいよ」
「素直なのは楸瑛兄さまの数少ない美徳よね。そんな顔しないよ、褒めてるんだもの」
 兄さまも料理を手伝って頂戴と言うと、十三姫は楸瑛の返事も聞かぬままに歩き出す。楸瑛はひとつ嘆息すると、足早にその背中を追いかけた。

 普通、貴族の姫君や奥方は料理などしない。使用人にまかせて、ただ采配をすることだけを求められる。
 けれど十三姫が育った司馬家では少々事情が異なる。
もちろん、司馬家も名家の一つではあるけれど、それは「武の家」実績と誇りに裏打ちされたものである。
だから司馬家では、当主やその妻も自ら率先して厨所に立つ。
実際に戦となれば、使用人も当主も関係ない。食事の準備も出来ないような人間は、生き残れる筈も無ければ、主である藍家当主を守ることも出来ぬと、十三姫も幼い頃から包丁を持ち鍋をふってきた。
 司馬家によく出入りしていた楸瑛も、そして、迅も、刀よりも重い鍋に四苦八苦しながら食事の用意をしたものである。
迅がいなくなった後、薄暗い厨所で一人十三姫が膝を抱えて涙していた事だって楸瑛は知っている。
いつかは司馬家当主の妻としてその厨所の主となる。
誰もがそう信じていた十三姫の未来。
忘れてしまうには、無かった事にするには、あまりにも多くの思い出を持ちすぎた。
楸瑛にとっても迅はかけがえのない存在で、ずっと肩を並べて歩いていくと思っていたから、邸のいたる所に迅の名残を見つけては、後悔とも諦めとも違うざわつきが胸を占めるのを施す手も無くただ受け入れるのだった。

「兄さま、あーん」
 十三姫の声に反射的に口を開けば、懐かしい味が広がる。
「これは、山鳥の……」
「楸瑛兄さま、好きだったでしょ?」
 山鳥を焼いて、味噌で甘辛く味付けをしたそれは、確かに楸瑛が昔から混んで食べたものである。
幼い十三姫には焼き加減が難しかったらしく、彼女にしては珍しく何度も失敗していた。
その度に殆ど食べるところの残っていない鶏肉を、迅が文句を言いながら残さずに平らげていたものである。
「龍蓮兄さまが、幻の山鳥をつかまえてきて下さったの。焼き加減、どうかしら?」
 迅の事を思い出しては落ち着かない楸瑛とは対照的に、十三姫の見せた表情はただ久しぶりに顔を合わせた兄弟との時間を楽しむものだ。
「美味しいよ。随分と腕をあげたね」
 楸瑛の言葉に十三姫の頬が緩む。
「本当? 秀麗ちゃんの菜と、どっちが美味しい?」
 何気なく続けられた言葉に。楸瑛はまたしても複雑な気持ちになる。十三姫は、妹の中でも特別だ。
 誰よりも、幸せになってほしいと願っている。
迅がいなくなってから、妹の心にそっと寄り添って包んでくれる男が現れるのを待っていた。

そんな妹が、今、恋をしている。
 いや、恋よりももっと深い愛と絆がもう、芽生えている。

本来であれば、それは楸瑛にとっても喜ばしい事。
――相手が静蘭でなければ。

兄達は、あるいは弟は、ここまで全てお見通しだったのだろうか?
凡人の自分だけが、解らずにいただけなのだろうか?
 自分に対する、或いは、今までに目にしてきた他者に対するその行いを鑑みれば、静蘭が十三姫を幸せにしてくれるとは思えない。
 器用な様で不器用で、矜持だけが高くて。そして何より、既に大切なものを選び取っている彼だから。
 自分もまた、全てを捨てて唯一のものを選んだ身だからこそ楸瑛には理解できる。
静蘭は十三姫の心に寄り添ってなどくれない。

「ちょっと、兄さま?」
 やっぱり、秀麗ちゃんにはまだ敵わないかしら? 楸瑛の心を知ってか知らずか、十三姫は屈託なく笑う。
「私は、私だもの。今は、兄さまたちが美味しいって食べてくれればそれでいいわ」
「……そうだよ、私達の可愛い妹の料理だ。その良さが解らない様な男なら、いつでも藍家に戻ってきたらいいさ」

振り返れば、三つの顔と一枚の羽根が厨房の入り口からのぞいている。
「あら、兄さま達も手伝って下さるの?」
 楸瑛の口からはけして言えない様な事を、十三姫は平然と言い放つ。
「丁度いいわ。これから餃子を包むのよ。六人で包めば早いわね。ほら、そこに突っ立ってないで龍蓮兄さまと月兄さまはそっちね。楸瑛兄さまと雪兄さまはこれを。花兄さまは私とこっちで」
 そう言うと、寝かせていた皮と餡を三つに分けて卓子の上に置く。

そうして、六人で競い合うように餃子を包む。
 龍蓮が何やら奇天烈な形を作ったり、途中で飽きた三兄が楸瑛の前に次から次にと皮と餡を積み上げたり、決して効率的とは言えなかったけれど、十三姫は心からの笑顔をで。
 これも全て兄の掌の上の出来事だというならば、それも悪くはないかなと楸瑛は思った。

 その数刻あと、羽林軍の新年会よりもひどい兄達の酔いっぷりと弟の横笛の音に、楸瑛が自らの甘さを悔やむ事になるのは、また別のお話。




2011年スタート記念リクエスト企画


だったのですよ。
4月まで引っ張ったわけですが、書き始めたのは1月だったので、作中は思いっきり年末です。
わたしのだいすきなおねえちゃんへ捧げます。

あ、ちなみに頂いたお題は「藍家」
藍家は紅家とはまた違った意味でとても賑やかなイメージです。
このお話は、紙ベースで書き書きした後に、打ち込みするというイレギュラーな方法で書きました。
ぱそこさんで書くと、ついつい遊んでしまうもので。

でも途中仕事が忙しくなり、放置している間紙ベースの原稿が家出するという恐ろしいことが起きました。
無くなるのは最悪諦めもつくけど、誰に読まれるか分からない家出だけはヤメテ。

まだまだ頂いたリクは残っているのでぼちぼち頑張ります。

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