幾望
「お互いにとって悪い話じゃないだろう?だから今日から私と貴女は、仮初めの恋人通しだよ。」
美しい顔のその人は、切なく顔を歪めながらそう言った。
頷いた自分の顔もまた、きっと同じように歪んでいたことだろう。
彼には特に報告はしなかった。
ただ、もしも聞かれたら是と答えること、聞かれなくてもそのように見える様に常日頃からふるまうこと、
それが二人の間の約束だった。
今日も視界の端に、その人が切なげな視線を送っているのを確かに捕らえた。
けれど、そちらに気づいたことは気取られぬように、そっと隣を歩く人に寄り添う。
彼もまた、その人の存在には気付いていながら、そうとは見せぬようにしているに違いない。
愛おしげに見降ろす眼差し、至宝に触れるかのように優しい掌。
頬を、髪を、ゆっくりと味わうように撫でられた後、ついに頤(おとがい)に手を添えられる。
あくまでも優しく、いとおしむ様な眼差し。
導かれるように近づいてくる唇に、自らのそれを合わせる。
ときめきも、喜びも何も生まれない、冷たい口づけ。
視界の端のその人は、逃げるように立ち去って行った。
「秀麗殿、こう言ってはなんだが、もう少し反応をしてくれてもいいのではないかい?」
彼、つまり口付けの相手である右林軍将軍の藍楸瑛は言った。
数々の美女と浮名を流し、女人を虜にすることにかけてはそれなりの自信も持っている彼にとって、
ただ物理的に唇を合わせ、受動的にだけ舌をからませる自分が物足りないのだろう。
けれど、仕方ない。
彼も、そうとわかった上での行為であったはずだから。
あの人以外にこの心が反応をするはずなどないのだ。それは彼とて同じだろうに。
「お言葉ですが、藍将軍。
そうお思いになるのでしたら、そのようにわたくしを導いてくださいませ。
そのぐらいの技量はお持ちでいらっしゃいますでしょうに。」
悔しくて、空しくて、口から零れ落ちるのは可愛げのない言葉ばかり。
いくら女人に優しいと評判の楸瑛も、このような態度には辟易しているに違いない。
ところが。
「目の前に私が居ながら、彼への思いを隠そうとしないなんて、冷たい人だ。」
心底心配したような瞳で見つめられ、気づけば自分は彼の腕の中にいた。
そう、彼は共犯者。
だから、私の気持ちを一番よく分かるのも彼なのだ。
にじみ出てくる涙を見越したかのように軽々と抱き上げられる。
「かわいそうな姫君。今宵だけでも悲しみを忘れさせて差し上げましょう。」
私の気持ちが一番良く分かる彼だから。そして私も彼の気持ちが一番良く分かる。
彼もまた、行き場のない思いを抱えている。
同じ人への叶わぬ思い。
同性であるが故の楸瑛の苦しみと、女人でありながら相手にされぬ自分の苦しみと。
その重さに順列などつけることはできない。
ただ、二人とも弱いから。
彼の悲しむ顔など見たくないから。
拒まれるとわかっていながら、あと一歩を踏み出すことができないのだ。
臆病者の共犯者。
そして同時に楸瑛も自分も狡いのだ。
「親友であり、愛弟子の恋人」
「弟子であり、親友の恋人」
嘘の立場で互いそして彼をも牽制し合い、空しく傷を嘗め合うだけ。
その関係から生まれるものは、負のものでしかないことなど先刻承知の上でもたれ合う。
歪んだ関係。