Be the one
 
 
 
 
 
 
  Be the one 
 
 
 
 
外朝を歩いていた秀麗は空を見上げた。
夜でもないのに、黒々とした雲が空を覆っている。
雨が降りそうだ、と思った。
 
 
今日は牢城の監察も外での内偵もない。
代わりに山のような書類との戦いのさ中ではあるが、室内での仕事なら、雨は関係ない。
でも暗いのは嫌ね、燭の油がたくさん必要になるもの、そんなことを思った。
 
 
幼少のころから身にしみついた質素倹約精神は官吏になっても抜けることはない。
むしろ少しでも無駄や不正が行われていないか目を光らせているため、
より倹約に磨きがかかっているといっても過言ではない。
そのために毎日毎日大量の書類に目を通すのが、今の秀麗の仕事だ。
 
 
ふと自分の掌を見る。
年頃の娘らしさとは無縁の手だ。
幼いころからの家事仕事、官吏を夢見て毎日握った筆、そして山のようにめくる書類。
それらによって秀麗の指の節々は固くなり、皸ができ、瑞々しさは失われている。
 
今までの人生を悔やんだことはない。
父がいて静蘭がいて小さいながらも温かい家族だった。
女人の身で勉学を積んで何になると、そういって邪魔をされることもなかった。
官吏になってからは、心ないことを言われたこともあったが、それが何だというのだ。
漸くつかんだ夢を手放すことと等価になど成り得ない。
 
けれど、最近この手が少しだけ恨めしい。
白く長い指の瑞々しい手であったなら、そう思うことがある。
自分には体に秘密がある。だから女人としての幸せは望むだけ虚しいだけ。
それは自分が一番分かっている。
 
けれど皮肉なもので、それを知った今のほうが思いは強くなっている。
あの方の隣に並びたい。
そんなことを願い始めたのはいつからだっただろうか。
考えても詮なきこと。きっと彼に会ったときから、こうなることは決まっていたのだから。
 
何度やり直しをしたとしても、自分はきっとあの人に惹きつけられる。
いずれ道が分かたれると知っていながら、
それでもひと時そばにいるために師としての彼を乞うだろう。
そしてこの道を行く限り、彼の背中を追いかけることはあっても、
隣に並び共に安らぐことはない。
 
自分に残された道は、彼の後を少しでも早く駆けのぼることだけ。
わかっている。
わかっているけれど。
それでもこんなに希うものか。
 
 
ため息をひとつ吐き出し、歩き出す。
しかし、数歩もいかぬところで再び足が止まる。
 
その先に壁にもたれかかるようにして佇む人。
ただ一人の自分の師。
恋情すらも教えてくれた人。
 
ときどき、自分が呼んだのがわかったかのようにこうしてそばに来てくれることがある。
優しい彼のことだから、弟子が心配で様子を見に来てくれるのだろう。
そう何度自分に言い聞かせたところで、
彼に会うたびに跳ね上がる自分の鼓動を止める術等知らない。
 
立ちすくむ自分を不審に思ったのか、彼のほうからこちらにやってくる。
許されることならその胸に飛び込みたい。
けれど、自分にはその資格がない。
もう一度ため息が漏れる。
それを見て彼は、働きすぎじゃないのか?と優しく笑った。
 
「絳攸さまこそ、ちゃんとお眠りになっていらっしゃいますか?」
いつも仕事に忙殺されている彼を知っているから、心配することぐらいは許されるだろうと思う。
だが、いつか彼も見つけるはず。
温かく彼の帰りを待つ、幸せな家庭を。
そこにいるはずの自分ではない女性に、嫉妬を覚える。
 
こんなに心の中がざわめくのは、きっと空のせいだ。
だってこの心の中は、今の空とそっくりだ。
そのことを彼は知らない。
ふいに頬に温もりを感じた。
自分の両の頬に添えられたのは、彼の掌。
自分のそれよりも大きくて。
でも筆と書類で荒れているところはちょっと似ている。
しばらくはそんなことを考えていた。
 
やがて彼の言葉で我に帰る。
「こんなに冷え切って、何をしている?少し働きすぎだぞ。」
漸く状況を理解した。
とたんに触れられた頬がかっと熱くなった。
「こ、絳攸さま…」
なんとか唇を動かして、それでも彼の名前を呼ぶことしかできなかった。
それをどう思ったのか、頬に触れた手は離れていった。
これで少しは自分の鼓動も落ち着くはず。
そう思ったのに。
 
頬を離れた手はそのまま自分の手に重ねられる。
もはや鼓動も早鐘のようだ。
彼が一歩近づいてくる。本能的に一歩後ずさる。
けれど、背中に当たる壁によって退路は断たれ、捕らわれた。
喉も、瞳も、全てが彼に捕らわれたようで、ただ黙って彼を見つめることしかできない。
やがて彼の唇が開いた。
 
「秀麗。俺では力になれないか?お前を支えさせてくれないか?」
意味が分からず、ただ見つめ返す。
彼ほど自分を支えてくれている人はいないのに。
なぜ彼の瞳は揺れているのだろう?
 
「俺の知らないところで、そんな風に悩んで欲しくない。
俺では、お前の安らぐ場所になれないか?」
まるで、先程の自分の思考を読まれたかのようだと思った。
焦がれ過ぎて夢でも見ているのだろうか?
きっと、そうに違いない。
そうでなければおかしい。
 
これではまるで。
「秀麗。聞いてくれ。俺はお前のことが好きだ。お前の傍でお前を支えたい。」
まるで絳攸さまが私を愛しているとでもいうように。
 
それでも唇から零れ落ちた言葉。
「……させないで。」
擦れて言葉にならない。
心が震えると喉も震えると、初めて知った。
 
それでも、もう一度振り絞る。
「期待させないでください。」
 
秀麗の言葉の意味をどうとったのか、絳攸の表情は悲しげなものになる。
そんな彼に、精一杯伝える。
 
「これ以上、優しくしないでください。ただの弟子でいられなくなるから。」
 
絞り出した言葉。この言葉の代償はきっと、重い。
彼にはきっと、距離をとられてしまう。
わかっていても、あふれ出した気持ちを言葉にせずにはいられなかった。
きっとこれが最後だから。
 
「優しくされればされるほど、私は辛いのです。
絳攸さまの特別になど、成れるはずもないと知っていながら、
それでも期待してしまうのです。」
だから、もう優しくしないで。
我慢していた涙が一しずく、頬に零れおちた。
 
絳攸さまの前で泣くなんて、困らせるから絶対に嫌なのに。
もう顔を見ることすらできない。
頬に温かいものが触れた。
 
閉じた瞼を開くと、彼の唇が離れていくのが見えた。
零れおちた涙をぬぐってくれたのは、彼の唇。
予想外の出来事に涙も止まった。
そして、彼の唇が再び開かれる。
 
「お前はとっくに俺の特別だ。
これ以上待てない。
俺も秀麗の特別になれないか?」
 
いつもと同じ優しさと、見たことのない熱さが混じった瞳。
こんな視線を向けられるのは、誰だろうと、
いるのかどうかもわからない女人に、何度嫉妬したことだろう。
今、是と答えることができれば、
この視線を独り占めできれば、
どんなにか幸せだろう。
だけど。
 
「いけません。」
拒絶の言葉に、握られた手に感じる力が少しだけ強くなる。
「ほかに好きな男がいるのか?」
是と答えるのが一番いい。
心の中ではわかっている。
けれど、この瞳を前にして嘘をつくことはできない。
だから首をただ横に振った。
お慕いしているのはあなただけと言えたなら、どんなにか楽だろう。
 
「俺のことが嫌いか?」
再び、ただ首を横に振る。
そんな態度に焦れたように、絳攸の語気がほんの少しだけ強いものになる。
 
「秀麗。教えてくれ。なぜ駄目なんだ。」
呼吸を整えるために大きく息を吸い込み、そして、応える。
「絳攸さまは……。
絳攸さまには、安らげる場所を作って差し上げる方が必要です。
私には、それはできません。だから、駄目なのです。」
 
あなたの傍にいたいけれど、それは私のわがままだから。
 
「俺は秀麗がいてくれればいい。
秀麗がいてくれれば安らげる。
それではだめなのか?」
 
思いもかけぬ言葉。
欲してただ欲して、けれど絶対に聞くことはできないだろうと諦めていた言葉。
この言葉を聞けただけで十分だと思った。
自分は十分幸せをもらった。
だからこそ、彼の幸せの邪魔はできない。
だから自分の秘密を伝えよう、自然とそう思えた。
「絳攸さま、私は子を成すことができないのです。」
突然の告白に流石の絳攸も驚いたようだ。
しかし秀麗の言葉を静かに聞いてくれる。
そんなところも好きだと、今更ながらに思った。
待ってくれる彼に精一杯の真実を伝えよう。
 
「子を成すことができない私では、安らぎの場所にはなりえません。
それに私は官吏を辞めることも致しません。
ですから、どうか共に優しい家庭を作ることのできる姫君をお探し下さい。」
 
だからあなたは幸せになってください。
それが私にできる全てだから。
 
「それだけか?」
必死の思いで打ち明けたのに、返ってきた言葉は意外なもので。
「え?」
思わず気の抜けた声が出てしまった。
しかし絳攸は真剣だ。
 
「だから理由はそれだけかと聞いている。」
「それだけとは?」
「それが解決すれば、俺は秀麗の特別になれるのか?」
解決などするはずもないのに。
けれど、もしも何か奇跡が起きてそうなれば。
 
「そうですね。解決すれば。でも…」
そんなことが起きるはずがないと続ける秀麗の言葉を、絳攸が制する。
 
「それなら簡単だ。
俺は秀麗の傍にいたいのであって、子を産む女を探しているわけではない。
それに、俺は秀麗に官吏を辞めさせようなどと思っていない。
ただ、秀麗の傍なら俺は安らげるし、
俺の傍で秀麗が安らいでくれれば嬉しいと思っているだけだ。」
 
「そんな、簡単に……。」
若手官吏の中でも特に出世頭の絳攸を、婿にと望む名家は引きも切らないはず。
そしてそれは、絳攸の後ろ盾ともなるものだ。
それを要らぬなどと簡単に言うとはと、
非難の色が混じった秀麗の言葉にも、絳攸は動じる様子がない。
 
「それに俺は、養子なんだ。
けれど、養い親のことは尊敬しているし、家族だと思っている。
その人たちが教えてくれた。そばにいるのに必要なのは、そうしたいという気持ちだけだ。
俺は秀麗の傍にいたい。秀麗はどうだ?」
 
焦がれた人に熱い眼差しを寄せられて、ここで否と言えるものがいるだろうか。
「私、は、……私も絳攸さまのお傍にいたいです。」
退路を断たれたと言い訳し、本当の心を打ち明ける。
「本当は、ずっとお慕いしておりました。」
そうして彼の胸へと飛び込む。
「俺もずっと前から、秀麗を愛している。」
髪をなでながら彼がくれた言葉は、単純でそれでいて甘い。
けれど次の言葉にはもっと驚かされた。
 
「秀麗、今すぐでなくていいから、いつか俺と結婚してくれ。」
「…私で、いいのですか?」
「秀麗がいいんだ。本当は今すぐにでも秀麗は俺のものだって、知らしめたいくらいだけど。
秀麗の都合もあるだろうから、いくらでも待つ。だからいつか結婚してくれ。」
 
彼の眼が少しだけ揺れている。
自分が何と答えるか、そんなことは決まっているのに、それでもきっと不安なのだろう。
だから自分ことばできちんと返事をした。
 
「はい、絳攸さま。いつか私の家族になって下さいね。」
そう言って彼の頬に口づけた。
外朝でこんなことをするなんて。
そう思ったけれど、二人のほかに人影はない。
降り出した雨だけが、二人を包むようにひそやかに音を立てていた。 
 
 
 
 
あとがき、という名の言い訳
 
大人の絳攸第二弾。
本当は、何かをしなければ一緒にいられないのではないかなどうじうじ悩む絳攸も好きです。
ただ、小鈴が書くといつも秀麗に押されているので、絳攸がんばれと思って書きました。
そしたら告白どころかプロポーズまでしちゃいました。
でも李姫の場合、真剣にお付き合いするから、結婚前提ってことになってもおかしくないのかな?
この話は以前に書いたSweet Impactの続きというか、この二つに関しては同じ時間軸の過去と未来で考えています。
だから絳攸はけっこうずっと待っていたんです。
だけどとうとう腕の中で守りたい気持ちが勝ってしまった、そんな感じ
 
 
 2010年4月22日 連載のため分割していたページを、統一。
 
 
 
 
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