繊月
 
 
「抱いてくださいませ」
彼女はそういった。
 
繊月
 
 
吏部侍郎・李絳攸は、降りしきる雨の中外朝を歩いていた。
 
「軒宿りが移動したなどとは、聞いていないが…」
 
吏部の自室を出てから、随分と時間が経ってしまっているようだ。
薄闇だった空が、真っ黒に変わったのは、雨をもたらした厚い雨雲のせいだけではないはず。
せめて月でも出ていれば、と思い、すぐに昨日は朔だったと思いだす。
雲が無くとも、どのみち月明かりなど期待できそうにない。
 
 
それにしても、嫌に胸騒ぎがする。
こんな雨の日は、早々に帰宅するに限る。
そう思って早二刻。
絳攸は自分に無断で外朝の改装が行われた事に、苛立っていた。
 
そんな時、女の悲鳴が聞こえた。
誰のもの、など考えるまでも無い。この外朝に居る女性などただ一人だけ。
自然と悲鳴の上がったほうへと足を向ける。
今度はよりはっきりと、悲鳴そして言い争う声が聞こえた。
 
「離して!嫌っ。」
「諦めろ。仕事のうちだ。俺だって長官に命令されなきゃお前なんかに手を出すもんか。」
回廊の壁際にもたれかかるようにしてようやく立っている秀麗は、
その両肩の外に手をついた陸清雅によって捕らわれている。
「…、さわら、ないで…」
 
「紅御史・陸御史。何を騒いでいる。」
弟子の穏やかならざる様子に、思わず声を掛ける。
「…あ、こう、ゆ、…さま。」
 
こちらを向いた秀麗の顔に驚かされた。
黒曜石のような瞳は潤みを湛え、肌は頬だけでなく頚元までほんのりと赤く上気している。
そして艶めく唇。
一瞬で心臓を捕まれたようになる。
 
言葉をなくしただ立ち尽くすだけの絳攸に、秀麗は縋る様に手を伸ばす。
「絳攸さま、助けて…。」
その言葉に我に返り、清雅の腕の中から秀麗を奪って抱き上げる。
 
手を触れた瞬間に、過剰なほどぴくりと反応したのが気になった。
「陸御史、どういうことだ?」
問われた清雅は、半分馬鹿にしたように、そして半分は心底面倒くさそうに答える。
 
「御史台の、仕事の一環ですよ。
仕事で使う薬には自分たちも耐性をつけておく。
それが今日のこいつの場合は媚薬だっただけの事。
言っておきますが、本人もわかった上で服したのですから、文句を言われる筋合いはありません。
ただ、そのままではそいつも辛いだけだから、鎮めてやれと、長官命令でね。
俺も忙しいのに、損な役回りですよ。」
 
「あんたに、鎮めて欲しいないて、頼んで、ない…。」
腕の中で清雅に反論する秀麗は、
息が乱れて、どこか苦しそうだが、清雅の話で得心が行った。
 
そして、自分の中で何かかちりりと焦げるのを感じた。
 
 
 
第二話
 
「そういうわけで、こっちも忙しいので、そいつばかりに時間を割けない。
さっさと終わらせたいので、渡してください。
それとも、吏部侍郎様が俺の代わりに面倒見てくださいますか?
まぁお勉強ばかりのお上品な侍郎様にそんな事ができれば、ですけれど。」
 
自分に対するあからさまな揶揄よりも、
秀麗へのあまりの扱いに、目が眩む様だった。
長官に、同僚に、なかなか認められないと、
仕事の成果をすぐに横取りされると
そういったことで頬を膨らませているのは何度か目にした。
 
けれど、不正を正す御史の仕事それ自体は、
秀麗の真っ直ぐな気性にも合っているようで、
仕事それ自体を嫌がっている様子は見たことが無い。
 
だからこそ、自分たちの都合で冗官に突き落とした後も、
それが必要な措置だったと疑う事はなかった。
 
だが、今、初めて後悔している。
手を差し伸べてはやらないと言ったのは、
けしてこんな意味ではなかった。
こんな、秀麗の心を土足で踏みにじるような、
そんなつもりは無かった。
けれど、自分の認識の甘さを突きつけられる。
 
「とにかく、紅御史は俺が預かる。それで良いな。」
 
「わかりましたよ、吏部・侍郎・サマ。紅秀麗、また今度楽しもうぜ。」
言外に部外者の癖に余計な事をという非難をありありと浮かべながらも、
形ばかりは立派な礼をとり、清雅は去っていく。
その姿が見えなくなったことを確認した後、腕の中の秀麗が、口を開く。
 
「こう、ゆう、さま、ありがとう、ございました。も、だい、じょ、ぶで、す…。」
息も乱れたままで礼を言い、
そのまま地面に降りようとする秀麗を、絳攸は力をこめて抱きしめる。
「馬鹿。大丈夫なわけがあるか。軒で送ってやる。」
御史台にはまた灯りの点っている室がいくつもある。
それに、夜間警備の衛士もいる。
こんな状態の秀麗が、他の男の目に触れるなど考えたくもない。
 
「ですが…。」
なおも抵抗しようとする秀麗を安堵させようと、声を掛ける。
「心配するな。何も、しない。きちんと送っていく。」
そういうと絳攸は、秀麗を抱いたまま歩き出す。
ところが腕の中からは更に抗議の声があがる。
 
「…絳攸さまは、お分かりに、なって、いらっしゃいません。」
「何を、わかっていないというのだ?」
「今の、私には、触れられるだけで、辛い、のに…。」
潤んだ目で抗議されると、絳攸の心もぐらつく。
それを振り切るように溜息を吐き出しながら問う。
 
「秀麗。俺にどうしろと。
言っておくが、さっきのような場面を見せられては、
このままお前をここに置き去りにはできん。」
 
「…それなら、絳攸さまが、鎮めてください。」
一瞬言われた意味が判らなかった。
 
次いで、心臓が早鐘のように高鳴りだす。
 
 
 
第三話
 
「?…秀麗?な、に、を…」
 
「絳攸さま、私を、抱いてくださいませ。」
 
艶めく珊瑚色の唇が紡ぎ出す言葉は、
甘美で、それで居てひどく冷たい。
このまま連れ去って一夜の繋がりを持つか、
それができないならこのまま去れと、残酷な二択を迫ってくる。
 
先ほど清雅と会ったときに生じた絳攸の心の中の焦げは、
確実に、黒く大きく広がっていく。
この息苦しさは何だと考えて、絳攸は唐突に理解した。
 
自分は、秀麗を愛していると。
 
そして彼女に突きつけられた選択肢の残酷さに立ち尽くす。
 
秀麗が求めているのは、愛故の行為ではない。
絳攸が断ると知った上で、
一人で耐えて見せるから放って置いてと絳攸を突き放す。
 
けれど、思いを自覚した今、
愛しい女人のしどけない姿をこのまま晒す事も、
また他の男に彼女が身を任せる事も我慢ならない。
 
いや、そんなものは全て言い訳だと、頭の片隅で理解している。
自覚していなかっただけで、
ずっと、秀麗を自分だけのものにしてしまいたかった。
それを今なら、彼女のせいにして、実現できる。
それに縋りつきたいほど、彼女を欲している。
 
「お前が、そう望むなら、叶えてやろう。」
 
そう言って絳攸は、欲望に屈した。
 
 
貴陽紅家別邸では、たとえ深夜になろうとも必ず家人が出迎えをする。
絳攸の帰りが遅いのはいつもの事だが、
その腕の中に女人が抱えられていることに、家人は驚いた。
しかし流石は紅家家人。
そんなことは顔には出さずに淡々と対応する。
 
「お帰りなさいませ、絳攸様。お客様は、どのように?」
「俺の室で良い。それからこの事はくれぐれも母屋には知られぬように、頼む。」
「かしこまりました。」
そういうと家人は絳攸の前を歩き出す。
そうしないと若君は邸の中でも迷っておしまいになるからだ。
そうして歩きながら、思わず家人の顔が綻ぶ。
 
旦那様が突然拾ってこられた若君は、
優しく賢く、家人の前でも驕る事がない。
その上若くして朝廷でも大きな任を負っている事は、
この邸の家人全てが誇りに思っている事である。
 
あとは、気立ての良い姫君を娶られれば…とは、
若君を敬愛する家人全体の思いであった。
 
ところが、どうした事か若君には浮いた噂のひとつもなく、
邸に女人を連れてきた事もない。
たまに訪ねて来るのは藍家の若君だけ。
めったにない休日も、
泥のように眠っているか、室に篭って本を読んでいるかで、
女人と逢瀬を重ねている様子もない。
 
うちの若君ほどの方が何故?と、誇り高い紅家家人たちは
少しばかりの不満と、それより大きな心配を常に抱えていたのである。
 
それが今夜、こんな遅くに若君は女人をお連れになった。
しかも自室にお連れすると言う。
 
姫君を腕に抱く若君の腕は優しく、そのことが家人を安堵させた。
 
 
第四話に続く
 
 
 
 
 
 
 
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