繊月 3
 
第七話
 
明朝。絳攸が目を覚ましたとき、腕の中の秀麗はまだ眠っていた。
普段の激務に加え、昨夜絳攸が強いた行為で疲れているに違いない。
初めてであったなら、なおさらだ。
 
しかし、その寝顔は穏やかで、そして出会った頃のようにあどけなく、
昨夜のことは夢だったのではないかと疑わせるほどだ。
けれど、腕の中に感じる心地よい温もりは確かに現実のもの。
 
まもりたい、そう思った。
 
腕の中にすっぽりと納まる華奢な体も、
今は閉じられている瞼の下の真っ直ぐで曇りのない瞳も、
全てが愛おしく、そして儚げで、
壊れぬように守りたいと思った。知らず知らずのうちに腕に力が入る。
 
その感触で目が覚めたのか、ぱちりと秀麗の瞼が開いた。
 
「秀麗、おはよう。」
 
ごく自然に言葉がこぼれる。
 
「…こ、こうゆう、さま。おはよう、ございます。」
 
そうして秀麗は視線をそらしてしまう。
一瞬、昨夜のことを覚えていないのかとも思ったが。
 
「あの、とりあえず、服、着ませんか…?」
耳まで真っ赤にしてそう言う秀麗につられて、絳攸も赤くなる。
 
「そ、そうだな。俺は、隣の室に行っている!」
 
そう言って手早く衣を身に着け出て行こうとする絳攸に、秀麗は再度声を掛ける。
「絳攸様、あの、申し訳ないのですが、腰が、立たなくて。
侍女の方がいらっしゃれば、手伝っていただきたいのですけれど…」
 
その言葉で、二人の顔はこれ以上ないほど赤くなる。
「…俺が、着せてやる。」
「いえ、絳攸さまのお手を煩わすわけには…」
「いや、俺の、せいだから。」
「…はぁ、でも…。」
「どれからだ?」
「…え?」
「どれから着せてやれば良い?」
「……ぁぁぁあ、それから、お願い、します。」
 
そうしてかなりぎくしゃくとしながら、どうにか秀麗は衣をつけることができた。
だが秀麗は少し動くのも辛そうだ。
「その様子だと、出仕は無理だろう。」
「今日は、公休日ですので。」
「そうか。」
「あの、いろいろ申し訳ないのですが、うちまで軒をお借りできませんか?」
「心配せずとも送っていく。」
「い、いえっ。軒さえお貸しいただければ、一人で大丈夫です。」
 
一刻も早くこの場から去りたいといった様子の秀麗に少し苛立ちながら、絳攸はゆっくりと口を開く。
 
「秀麗、話がある。聞いてくれ。」
「昨日のことなら謝ります。」
「別に、お前が謝る事じゃない。
だけど、俺も謝るつもりはないし、忘れるつもりはもっとない。」
「…なっ、忘れてください。」
「無理だ。」
「お願いですから。」
「無理なものは無理だ。」
 
赤くなった顔を背けようとする秀麗の肩に、そっと手を添える。
「秀麗、頼むから、こっちを向いてくれ。」
しばしの沈黙の後に、漸く秀麗の漆黒の瞳と視線が交わる。
 
「秀麗、順番が逆になってしまったけど、俺はお前の事が好きだ。
だから、俺と結婚して欲しい。」
 
そういいながら、
どんどんと自分の鼓動が高まるのを感じて、
このまま自分は壊れてしまうのではないかと思った。
 
 
 
第八話
 
それなのに。
 
「申し訳ありませんが、それはできません。」
返されたのははっきりとした拒絶の言葉。
けれど、自分の心を自覚してしまった以上、簡単に引き下がる事はできない。
 
「他に、好きな男がいるのか?」
「いいえ。」
「俺の事が、嫌いか?」
「…いいえ。」
「仕事の事が心配か?別に俺は官吏を辞めろというつもりはない。」
「そうではありません。それに、絳攸さまは、その、…心配しておられるのではないかと。」
「心配?」
「はい。
昨日のことで、私が子を孕むのではないかと、
それに責任を感じておいでなのではないですか?
それでしたら、ご心配いりません。」
 
「秀麗、何を言っている?
責任はもちろん感じているが、そんな覚悟もなしにあんなことは、しない。
俺はただ、秀麗が好きだから秀麗と夫婦になりたいんだ。」
「でしたら尚更、だめです。」
「…秀麗、わかるように話してくれないか?」
 
「私は、子が産めないのです。」
あまりにも意外な秀麗の告白に、絳攸はただ絶句するしかなかった。
それをどう取ったのか、秀麗は更に話を続ける。
 
「子が産めないことが判ったときに、結婚は諦めました。
ですから、昨夜のことは忘れてくださいませ。」
「秀麗、話をすり替えないでくれ。
俺は、子を生ませるために結婚したいんじゃない。」
「絳攸さまこそ、冷静になってください。
朝廷でのお立場を考えても、
このような立派なお屋敷にお住まいであればお家のことを考えても、
それ相応の身分の姫君を娶られるべきです。」
 
頑なな態度の秀麗に、絳攸は大きく息を吐き出し、ゆっくりと秀麗に言う。
 
「秀麗、もう一度聞いてくれ。
俺は、紅秀麗という一人の女人を愛しく思っている。
その女人は、元気で、努力家で、負けず嫌いで、真っ直ぐな人だ。
賢いけれど、正義感が強くて、
わが身の事も省みずに突っ走っていくようなところがあるから、
そういうところは心配だ。
ちょっと倹約に厳しかったり、
言い出したら聞かない頑固なところもあるけれど、
そういうところも含めて、
そのままの秀麗が、好きだ。
俺は、こんな立派な屋敷に住まわせてもらっているが、
もともとは、親の名前もわからぬ拾われ子だ。
拾ってくださった方のお役に立ちたい一心で官吏にもなったが、
そういう事情だから、家のための跡継ぎなど考えなくてもいい。
それよりも、
これから先秀麗が走りすぎて疲れたときに、休む場所を用意してやりたい。
仕事で理不尽な事に遭って泣きたくなったとき、
好きなだけ泣ける場所を作ってやりたい。
外で頑張りすぎる秀麗が、帰ってきて力を抜ける場所になりたい。
それだけなんだ。秀麗、俺ではダメか?」
 
 
 第九話
 
「だめ、です。
絳攸さまのお側には、
優しくて、綺麗で、家柄の良い姫君が居るべきなんです。」
 
またも顔を背けようとする秀麗を、逃がさないように両腕の中に閉じ込める。
 
「俺はそんなことで妻を選ぼうとは思っていないが。
だが、その条件は秀麗も満たしているだろう?
優しくて、可愛くて、国中で一番家柄の良い姫君だ。
王家にも藍家には直系の姫君は居ないからな。
まぁたとえ居たとしても、あの馬鹿たちと兄弟になるなんて真っ平だけど。
さぁ、秀麗、他に言いたい事はあるか?」
 
絳攸の予想外の言動に
思考能力が停止して、上手く言葉が出てこない秀麗を、
そっと抱きしめながら、絳攸は秀麗の耳元にささやく。
 
「秀麗、そろそろ聞かせてくれ。
俺はお前が好きだ。お前は、俺の事をどう思っている?
教えてくれ。」
「…いえません。」
「相変わらず強情だな。じゃあ嫌いか?」
「…いいえ。」
「好き?」
「…すき、です。でも結婚はできません。」
 
思いが通じ合っていると聞かされて、しかし結婚は断られ、
複雑な心境の絳攸だったが、これ以上焦っても仕方がないと両手を離してやる。
 
「今日明日急いで返事をもらおうとは思っていない。
だけど、俺は諦めるつもりはないからな。」
 
そういうと絳攸は、朝餉を食べたら送ってやると言い残し、
家人を呼ぶため室を出て行った。
 
残された秀麗は一人溜息をつく。
昨夜のことは薄ぼんやりと覚えている。
清雅に絡まれて、
その先に恋い慕う人の姿を見つけて、
思わず手を伸ばしてしまった。
 
それが、失敗だったと思う。
なんとしてでも自分の執務室に戻り、鍵をかけるべきだった。
 
薬のせいで半分しか残されていない理性を言い訳にして、
今までひた隠しにしてきた恋情を曝け出してしまった。
優しい彼のこと、断る事もできず、
かといって一夜の関係と打ち捨てる事もできず、
責任感を感じているに違いない。
 
だから、妻にとは、いかにも彼らしい、筋の通った誠実な話である。
だからこそ、そこに付け込むのは嫌だった。
紅家の名のほかに何も持たぬ自分では、駄目なのだ。
 
それに、女人国試を導入したときの彼らの苦労を思えば、
今、道半ばにして官吏を辞めることはできない。
この先も国試への道が女人に開かれていくためには、
自分が大官として名を残さねばならぬ。
そのためには、自分のためだけの結婚はできない。
子をなす事ができない以上は、
官吏としての、
また紅家の名を持つものとしての価値を
一番高く売りつける事ができる相手との婚姻しか道は残されていない。
 
その、まだ見ぬ誰かには申し訳ないが、
形だけの結婚相手としては、秀麗は絳攸を選べない。
彼の人には、幸せになって欲しい。
幼い頃自分を包んでくれた父と母のように、温かい家庭を彼には持って欲しい。
それが自分にできたならとは願っても詮無き事。
 
そもそも彼を利用するような事をした自分は、もう、
彼の隣に並ぶに相応しくない。
悲しいけれど、でも自分がなすべき事は今までと同じ。
ただひたすらに、彼の後をついて駆け上っていくだけ。
これでもう、迷う事はない。
だから、昨夜のことは夢と忘れようと心に誓った。
 第十話へ続く
 
 
 
 
 
 
 
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