繊月 4
第十話
 
無言のまま軒に揺られ、邵可邸へと辿り着く。
秀麗は未だ一人で立つことができなかったから、
絳攸の腕に抱かれて門をくぐるしかなかった。
 
すぐに、物音に気付いた静蘭が現れる。
 
「悪いが室で寝かせてやってくれ。」
静蘭が何かを問う前に、機先を制して絳攸は秀麗を静蘭に預ける。
ごく自然に静蘭に身を預ける秀麗を見ては、またも心が焦げるのを感じた。
 
そして絳攸は邵可の元へと向かう。
話しておかねばならない事があった。
 
養い親の過度の愛情の対象となっている兄として、
府庫の主として、
いつも柔らかい微笑を浮かべた人。
絳攸の思い描く紅邵可という人は、そんな人だった。
 
けれど、今日この場に漂うぴりりとした空気は、
果たして自分の後ろ暗さによるものだけだろうか?
 
絳攸が秀麗を頼んだ事で静蘭も手が離せないので、
必然的に目の前には邵可の入れたお茶が置かれている。
まずはどうぞと言われ口にしたそれは、常よりも更に苦く感じた。
 
「それで、このように朝早くからどうされたのですか?」
まずは秀麗のことを聞かれるだろうと思っていた絳攸には、
邵可の問いは、まるで、全てを見透かされているように感じた。
 
大きく息を呑み、そして話し始める。
 
「秀麗に、妻問いをいたしました。」
「…それであの子はなんとお返事を?」
 
さして驚いた風でもなく問い返してくる邵可が纏う空気は、
やはり常とは異なっている。
 
「断られました。」
「…まぁ、そうでしょうねぇ。」
「あの、邵可様。…お怒りにならないのですか?」
「怒る?何故ですか?」
「紅家ほどの家柄の直系長姫の結婚となれば、本人よりも先に、
当主代行の玖琅さまや、親である邵可様にお話をするのが筋かと…。
それに私は出自の知れぬ身。
紅家の姫君とは釣り合う身分ではありません。」
 
「けれど、絳攸殿は、そうはなさらなかった。何故ですか?」
 
「紅家の姫だから欲したのでも、
官吏としての立場から妻にと思ったわけでもありませんから。
ただ、李絳攸が紅秀麗を妻にと望んだから、本人に直接申し込んだだけです。」
 
「それなら、私が口を挟む事ではありませんよ。
あの子の幸せは、あの子が自分で決めます。
秀麗が選んだ幸せなら、それ以上の幸せはないのです。
それから、あなたは、
私の可愛い弟の黎深とその奥方の百合姫が大切に育てた、私の大事な甥ですよ。
そして何より、私は絳攸殿の人柄を知っております。
自慢の甥だと思っていますよ。それで、どうなさるおつもりですか?」
 
「私は、まだ、諦めておりません。」
 
「…ほう。」
 
「秀麗は、子が為せぬから、吏部侍郎との婚姻は承服しかねると、そういいました。
李絳攸という一人の人間に対しては、まだ返事をもらえたと思っていません。
ですから、諦められません。」
 
「あの子を、思ってくださっているのですね。」
 
「主上と、私たちが秀麗に強いた事は、謝るつもりはありません。
彼女の志を、国のために利用しました。
おそらくは、これから先も。
そんなことをした俺が、ずうずうしいかもしれませんが、
息をつく場所を、泣ける場所を作ってやりたいのです。
…いや、本当は逆で、
俺が、彼女のそばで安らぎたいと、そう思っているだけなのかもしれません。」
 
 
第十一話
 
「その気持ちで十分ですよ。
…黎深には、私からよく言っておきます。
玖琅には、しばらく伏せたほうが良いでしょう。
あの子は家のためとなると少々見境がなくなるきらいがあるから。」
 
そう言われて、以前に一度玖琅から打診された秀麗との見合い話を思い出す。
あの時はまだ、自分の中にこれほどの恋情が生まれるとは思いもしなかった。
もしもあのときに戻れたら、自分はあの話を進めるように玖琅に頼んだだろうか。
 
いや、それでは意味がないのだ。
秀麗が自ら、選んでくれなければ。
そうでなければ、彼女が自分のそばで安らぎ、弱音をこぼす事はないだろう。
それでは、駄目なのだ。
 
思索の森に入り込むように黙り込んでしまった絳攸に、
邵可が少し笑いながら言葉をかける。
 
「あの子の気持ちだけは、私がどうこうする物ではありませんが…。
ただひとつ、良いことを教えて差し上げましょう。」
 
邵可の言葉に絳攸を俯いていた顔を上げる。
 
「私もね、あの子の母親には何度も妻問いを断られているのですよ。
最初は『たわけ』でしたね。
それから、『愛とは何だ、何の役に立つ?』とも。
漸く心が寄り添ったと思った後でさえ、
『友人と言う手もある』と何度も結婚を断られました。
一番傷ついたのは『はやく綺麗な嫁をもらえ』ですね。」
 
「邵可様が?」
 
「えぇ。実は妻も子の望めぬ体だったのですよ。
だから、紅家の長男と結婚はできぬと何度言われた事か…。」
 
子の望めぬ体だと?だが?
 
「そう。それでも私たちは秀麗という宝に恵まれました。
もちろん、だからと言って秀麗にも同じ事が望めるかと言うと難しいでしょうが…。
けれど、そうでない夫婦の形もあって、
それで幸せになれると秀麗が納得するなら、私はそれで良いのですよ。
それに、これは親の我儘ですが、
そういう幸せをあの子と見つけるまで諦めない誰かが、
一人くらいいてくれたら良いのにと思います。
あの子が聡すぎるのも、頑張りすぎるのも、
元はと言えば、全部私のせいですから。」
 
「邵可様…。」
予想もしなかった言葉の数々に、それ以上言葉を継ぐことができない。
そんな絳攸の様子を見て、邵可がぽんと膝を叩く。
「どうやら昔話の感傷に浸って、おしゃべりが過ぎたようですね。
でも絳攸殿、あなたは、あなたの信じた道を行けばいい。
そうしてあなたが幸せを見つけることは
黎深も百合姫も望んでいることだと思いますよ。」
焦る必要はありませんよ、そう言って邵可は絳攸を見送った。
 
 
 
第十二話
 
そして主だけになった室の中で、その扉の向こうに邵可は声をかける。
「秀麗、いるのだろう?入っておいで。」
その言葉の後にふらふらとしながらも、何とか自力で秀麗が入室してくる。
「とうさま、気付いてたのね。」
「愛する娘のことならわかるよ。」
「とうさまにはやっぱり叶わないわね。…ねぇとうさま、さっきの話、本当?」
「何がだい?」
「かあさまのこと。そんなに何度も振られたの?」
「あぁ、本当だよ。」
「とうさま、それでも諦めなかったの?」
「あぁ、どうしても諦められなかったからね。」
 
「かあさまがなかなか結婚してくれなかったのって、
子供が産めないって言われてたから?」
「そうだね。
おかしな話だけど、
愛してもらうようになる前よりも、
愛してくれるようになってからのほうが、頑なだったよ。
誰かを愛したらその者の幸せを一番に考えなければならないって彼女は言ってた。
愛し愛されるだけではどうにもならぬこともあるとも。
だけどね、私には彼女以外と幸せになれるなんて思えなかったんだ。
だから彼女が折れてくれるまで、
何度も何度も、それはしつこく妻になってほしいって頼んだんだよ。
それで結果がどうなったかは、君の知っている通り。
彼女がいて、君が生まれて、静蘭もいて、私は沢山幸せをもらったよ。
君も、きみ自身の幸せについて、もっと欲張りになっていい。」
 
「今だって、十分幸せよ。官吏にもなれたし、毎日お米も食べてる。」
「…、秀麗前に私の言ったこと、覚えているかい?」
「…前?」
「怒ることも泣くことも、だれかの側ですること。
疫病騒動で君が茶州に向かう前に話したことだよ。
あの時君は、私のところに来て、泣いた。
だけど、私もいつも君の傍にいてあげられるわけじゃない。
君は、君自身で、その誰かを見つけなきゃいけない。
一人で生きていけると思うとしたら、それは傲慢以外の何物でもないよ。」
 
邵可の言葉を黙って聞いていた秀麗は、
頬を温かいものが流れ落ちていくのを感じた。
それを拭いもしないまま、父の胸に顔をうずめる。
頭を撫でてくれる邵可の手は、
秀麗のものよりも大きくて、そして暖かく、幼い頃の記憶を鮮やかに蘇らせる。
 
秀麗が母と過ごした期間はけして長くはない。
けれど、その間、父も母も確かに幸せだったのだと分かる。
二人が自分に注いでくれた愛情は心と体にしっかりと刻みこまれている。
 
「…とうさま、私怖いの。
最初は良くても、そのうちに、
やっぱり子どもの産める女の人がいいって言われたらと思うと、
怖くてたまらない。
それに、私、官吏を辞めることはできないし辞めたくないわ。」
 
「君の知っている絳攸殿は、そんな風に簡単に意見を覆す人なのかな?
もし君が本当にそう思っているなら、断ればいい。
だけど、君は本当は知っているだろう?
彼がどんな人間か。
君が彼を見て感じたことは、そのまま信じてあげるべきだと思うよ。」
そう言うと邵可は、一人でゆっくり考えるといいと言って、室を出て行った。
 
 
 
第十三話
 
ひとり残された秀麗は、泣いてぼうっとなった頭で、ゆっくりと考える。
甘やかさないといいながら、折にふれさりげない気遣いを見せてくれた事。
冗官騒動の時、そっと様子を見に来てくれた事。
いつもずっと先を前を向いて歩きながら、時々振り返ってくれる事を知っている。
そして何より、
昨夜自分に向けられた視線が、
そしてそっと触れた指先が優しかったことを覚えている。
そうして気づけば、窓の外はいつの間にか闇に包まれていた。
 
弾かれたように立ち上がる。
「行かなくちゃ。」
気付けば、口をついて出た言葉。
考えるよりも先に、体が動いていた。
室を出て、廊下を真っ直ぐに門へと向かう。
そしてそこにいた人と視線がぶつかる。
息が、止まるかと思った。
 
「絳攸さま。」
「こんな時間に、どこに、行く。」
そう言って頬にそっと添えられた掌。
まるで不思議な引力を発してでもいるかのように、
秀麗は動けなくなってしまった。
 
絳攸はそんな事には全く気付いていないようで、菫色の瞳は切なげに揺れている。
「どこに行ってもいい、帰ってくるのは俺のところにしてくれ。
待つのは苦手だけど、秀麗のことならいつまででも待てるから。」
 
「…ません。」
声が擦れてうまく言葉が出ない。
それを、どういう意味にとったのか。
 
「やはり、俺では、駄目か?」
違うと伝えたくて、頬に添えられた優しい手をそっと取る。
 
長い指には、筆の肉刺。
その一つ一つが彼の努力を、
誠実さを表わしている事を、
ずっと前から知っている。
その指先にそっと唇をつける。
 
驚いたような戸惑ったような瞳を見つめて、そっと告げた。
「どこにも行きません。絳攸さまのお傍に居させてください。」
そうして抱きしめられて、嘘のように心が凪いで行くのを感じる。
この人を離してはいけない。
ずっと知っていたけれど、無視してきたこと。
「絳攸さまを、お慕いしています。」
「俺も、秀麗を愛している。」
そうして二人の唇がそっと重なったことは、三日月しか知らぬこと。
 
 
 
第十四話に続く
 
 
 
 
 
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