「あれは、桃の花は、おまじないなのです。」
「…まじない、か?」
「はい。絳攸さまにかなしみが降りかかることのないように。」
話すつもりはなかったのだろう、
秘密を告白するような秀麗の言葉には恥じらいの色が隠しきれない。
その姿も、そして自分のことを心配してというその言葉も、
妻の全てが愛おしくて、我慢が出来ずに唇を合わせた。
秀麗は気付いているのだ。若くして出世をしているが故に、
また、今上陛下の側近という立場が故に、常にやっかみの対象となっている自分を。
また、自分と秀麗の結婚をよく思わない輩が多いことも。
若手出世頭の自分と紅家直系の姫である秀麗は、
いずれも、婚姻によって権力の中枢へ取り入ろうと考える者にとって、特上の“物件”であったのだ。
絳攸と秀麗にはそのような意図など全くなく、
伴に人生を歩み、伴に安らぐ伴侶としてお互いを選んだ。
だが、周りにとってはそのようなことは瑣末なこと。
絳攸を婿がねに、秀麗を嫁にと狙っていたものが、やっかみから
「出自もわからぬ馬の骨が、うまく主家筋の姫をたらしこんだ」
「李絳攸の才能を他家にやるのを惜しんだ紅家が無理に秀麗と娶せた」
などとまことしやかに囁き合っている。
その様なことを全て知った上であれば、当然に秀麗とて傷つかぬはずがない。
しかし、秀麗自身のことではなく、まずは絳攸の身を案じてくれている。
絳攸の心には後から後から愛しさと喜びがあふれ出てくる。
その感情をそのまま伝えようと、秀麗の唇へ、首へ、そして胸元へと唇を這わせていく。
時折秀麗が洩らす吐息とも声ともつかぬ甘い音が、余計に絳攸に火をつけた。
秀麗の衣をさらに寛げ、舌を這わせてゆく。そして、途切れ途切れに言葉を吐き出す。
「悲しみなど……、秀麗が……、傍に、いてくれれば、」
そうなのだ。優しく、可愛く、何よりも愛おしい妻がいてくれるからこそ、
日ごろの激務にも耐え、翌日にはまた、何事もなかったかのように出仕することができる。
秀麗は、きっとそんな簡単なことに気付いていないのだろうが。
時間はいくらでもあるのだ。
今すぐに伝えずとも、いずれ気付いてくれるのを待てばよいと思っていた。
だが、今が、伝えるべき時なのかもしれない。
そう思い直し、離れ難さを感じながらも、
秀麗のすべらかで透き通るような白い肌からゆっくりと唇を離した。
熱に浮かされたようになっている秀麗を落ち着かせるように、髪をゆっくりと撫でる。
「秀麗。」
愛しい人の名を呼ぶ。
「はい、絳攸さま。」
彼女もまた、自分の名前を呼んでくれる。こんなことにすら、幸せを感じる。
「秀麗。聞いてくれ。俺は、秀麗がいてくれるそれだけで、疲れも悲しみもすべて忘れることができるんだ。
だから、どこにも行かないで、俺の傍にいてくれればそれでいいんだ。」
「こう、ゆうさま」
「秀麗、愛している。愛している。」
「わたくしも、絳攸さまをお慕いしております。
だから、絳攸さま、わたくしをおいてどこかに行こうとなさらないでくださいね。
どこまでも、追いかけていきますから。」
予想外の妻の答えに、絳攸は笑いを隠せない。
そうだった、彼女はいつも、欲しいものは自分の手でつかみ取ってきたのだ。
「そうだな、秀麗。追いかけてこい、どこまででも。」
「はい、どこまででも、追いかけていきます。」
そうして二人はどちらからともなく唇を近付ける。
深く深く、お互いの境目が溶けてなくなるほどに求めあう。
お互いに、もたれ合うのではない。
手をつなぎ、伴に駆け上がっていく。それが自分たち夫婦のやり方。
そう確認した二人の夜は、長い。
けれど、それを見ていたのは、窓際の桃の枝だけ。