Valentine’s day kiss
李絳攸は悩んでいた。
彼には愛する妻がいる。名を、秀麗という。
何よりも仕事を愛し、また周囲の人間に必要以上に愛される彼女を妻とするまでに、彼は幾多の困難を乗り越えた。その大部分が、彼の上司と、養い親によるものであったことは、彼を大いに悩ませた。しかし、最後には、秀麗自身の意志より、絳攸を選んでくれた。
そのことを、彼は誇りに思っている。彼は世界中でただ一人、妻から選ばれた男である。
しかし、最近、妻の様子がおかしい。
何が、と言われても、答えることはできない。
だが、確かに、妻は自分に隠し事をしている。
夫としての勘だ。
いつもより少しだけ回数の増えた外出。
出かける時にはしなかったはずの甘い香りのする衣。
絳攸が近付くと、読んでいた本を急に閉じることもある。
考えれば考えるほど、心の中に、ぐるぐると黒い渦が大きくなっていく。
そして今。
今日も一人で出かけるという妻に、絳攸は意を決して呼びかけた。
「しゅ、秀麗!」
「はい、絳攸さま?」
呼びかけに振り向いた秀麗は、いつもと変わらない、屈託のない笑顔で絳攸を見上げてくる。
その笑顔を見たとたん、絳攸の心はひるんだ。
「その、なんだ、気をつけて行って来い。」
「絳攸さま、別に遠くに行くわけじゃありませんよ?」
妻の瞳には、なぜ今日に限ってそんなことを?という疑問がありありと浮かんでいる。
「近くでも、気をつけて悪いことはないだろう。」
つい意地になって、子どものようなことを言ってしまった。しかし秀麗は少し笑って、
「わかりました。気をつけて行ってまいります。」
と出かけて行った。
そして一人残された絳攸は、またも出口のない迷路に迷い込みそうになった。
絳攸をその迷路から救ったのは、意外なことに、彼の養い親であった。
黎深はいつものように突然現れた。いつも不機嫌そうな黎深ではあるが、今日は輪をかけて、不機嫌だ。
早くも絳攸の胃は痛み始めた。
しかし、黎深は意外なことをいった。曰く、
「何をもたもたしている。すぐに出かけるぞ。」
そうして絳攸は、訳のわからぬまま、黎深に引きずられ、強制的に外出されられることになった。
(俺は、一体何をしているんだ?)
出かけて早々に、絳攸は頭を抱えたくなった。
おかしなことに(黎深がおかしいのはいつものことだが)、黎深は、物陰に隠れるようにして進んでいく。
「そろそろ教えて下さってもいいんじゃないですか?」
勇気を出して聞いてみた。気をつけて見てみると、黎深も心なしか、目が虚ろだ。
「……百合が。」
「百合さんが何ですか?」
思いもかけない義理の母親の名前に、絳攸は眉を顰める。黎深様が百合様を困らせることは日常茶飯事でも、その逆は起こるはずがない。それなのに黎深様のこの表情は、何だ?
「浮気をしているかもしれん。」
「は?」
「だから、浮気をしているかもしれんのだ。」
忌々しそうに声を荒げる黎深に、思わず絳攸は反論する。
「ちょっと待ってください。百合さんは、そんなことする人じゃありません。」
「お前は私よりも、百合のいうことを信じるのか。」
(今までの行いからして当り前じゃないか)と思ったが、口に出すほど馬鹿ではない。そこではっと思い当った。
「もしかして、これ、百合さんをつけてるんですか?」
「当然だ。現場を押さえて、説教をしてやらねばならんからな。」
黎深の態度はあくまでも上からだ。自分が悪いとか、謝って戻ってきてもらうという発想はないらしい。
(そんな事だから、百合さんが浮気の一つもしたくなるんじゃないか)。絳攸のなかで、だんだん、百合浮気説が真実味を帯びてきた。
だいたい、黎深様の奥様は百合さんにしか務まらないかもしれないけど、百合さんの旦那にはなりたい人沢山いるはずだ。
先を歩く百合は、一軒の民家に入って行った。
「なんだ、随分な賤家だな。」
黎深は不満そうに言う。黎深が賤家と呼んだそれは、確かに、紅邸と比較するべくもないものの、一般の民家としてはけしてみすぼらしい物ではない。
「黎深様、まさか、踏み込むつもりですか?」
絳攸はそんなことに付き合いたくはない。
「いや、急ぐことはない。もう少し様子を見る。」
黎深にしては冷静な言葉が返ってきた。
しかし、10分後。冷静でいられなくなったのは、絳攸のほうだった。
「なぜ秀麗がここにいる?」
養い親の詰問に、絳攸は知らないと答えるしかない。
「情けないな。仮にも秀麗の夫だろう。」
(自分だって、百合さんがなんでここにいるのか、知らないくせに。)そうは思っても、相手は黎深だ。世間の常識と黎深のそれが、大きく異なっていることを知る機会は、絳攸の人生において無限ともいえるほど存在した。それにしても、秀麗は何をしているのだろう。
ここ最近の妻への疑問が、改めて湧き上がる。絳攸の心の中を再び黒い渦が支配し始める。
「おい、絳攸。あれは、兄上の家人の小僧ではないか?」
黎深の言葉に、絳攸は我に返る。確かに向かいからやってくるのは、静蘭だ。
(まさか、秀麗と会うつもりなのか?)
誰よりも秀麗の近くにいた男。秀麗を見守り、支えてきた美貌の男。彼が秀麗に特別な思いを抱いていたことは、知っている。
だが、秀麗は絳攸を選び、静蘭もまた、愛する女性を見つけたはず。
彼が選んだのは、黒髪の、秀麗によく似、同時に全く似ていない女性だ。絳攸は思い出した。静蘭がその女性を見る目を。かつて秀麗を見ていたそれとは似て非なる、温かい視線。そして秀麗が自分の向ける視線にも、同じ温もりが宿っていること。
(そうだ、秀麗が選んだのは、他の誰でもない、俺だ。)
絳攸は一瞬でも秀麗を疑った自分を恥じた。他の誰でもない、自分が秀麗を信じないでどうするのだ。心の中にとぐろを巻いていた黒い雲は、いつの間にか消え去っていた。
「黎深様、静蘭が何か事情を知っているかもしれません。聞いてきます。」
絳攸がそういうと、黎深は勝手にしろと言った。
「私も何も聞かされていませんが、大体事情はわかりました。」
澄ました顔で、答える静蘭を前に、絳攸は少しだけ後悔した。この男はいつもそうだ。自分だけ、何もかもわかったような顔をして、前を歩いていく。たとえそれが、踏んできた場数と年齢の差だとしても、この男にだけは、負けたくない。たとえその思いが、浅ましい嫉妬と言われようと。
そして、頭の中で高速で答えをはじき出す。秀麗、百合さん、そして静蘭。ということは。
「十三姫も、この中なのか?」
絳攸の問いに、静蘭は是と答える。
絳攸は笑いをこらえるのに必死だった。おそらくは静蘭も同様だろう。
つまりここに集まったのは、愛する妻の浮気を心配しながらも、直に問いただすこともできない哀れな男たちなのだ。それぞれ形は違うが、いずれも国の中枢に深くかかわる者たち。そんなものであっても、妻の前では、一人の男にすぎないということか。
絳攸は改めて、静蘭に問う。
「それで、中で何をしているんだ?」
「いずれわかります。それに、お嬢様の秘密とあれば、たとえ夫君であっても、私からお話しするわけにはまいりません。」
美しい顔に、分かるものだけに分かる邪悪な笑みを浮かべるのをみて、やはりこの男には負けたくないと思う絳攸であった。
「気づかれちゃったみたいです。」
そう嘆息する秀麗に、
「あの子の事だから、本当に分かっているかは怪しいものよ。」
そう笑うのは、百合姫だ。それよりも、と続ける。
「なんか、黎深も付いてきちゃってるんだよね。あれで二人ともばれてないと思ってるんだから、笑っちゃうよ。」
すると十三姫も
「うちもね、付いてきてるの。司馬家仕込みの私相手に、あんな尾行するなんて馬鹿にしてるわ。」
と、なんだか論点のずれた怒り方をしている。
その姿に、少しだけ静蘭へ同情をしつつ、秀麗はもう一人の女性を見る。
「珠翠はどうなの?楸瑛さまには気づかれなかった?」
“狼”としての過去を隠している珠翠は、捲いてきましたとは答えることはできず、
「なんとか、上手く抜け出すことができました。」
と、誤魔化すしかなかった。
何となく笑顔がぎこちなくなってしまった気がする、と心配した珠翠だったが、秀麗には気付かれなかったようだ。
腕まくりをしながら、秀麗が告げる。
「それでは、始めましょうか!」
乙女の戦いは、これから…
→ここから先は、各カプごとのお話になります。
お好きなカプをクリックし、お進みください。
小説一覧へ
